Reexamination Of Japanese “Southern” Experience

from The 1920s To 1950s

日本人の「南方」経験の再検討

-グローバル時代の新しい歴史像の構築に向けて-

【史料紹介】日本・インドネシア友好親善永遠の金橋 Jembatan Emas Persahabatan Indonesia Jepang yang Abadi(『報告・論文集』所収)

伊藤雅俊(日本大学 国際関係学部 国際教養学科 助教)

English ver.

 本名を内田量三とするRidjojo Uchida 氏(1926-2008)は1926年、北スマトラ州東海岸の港町タンジュン・ティラムで生まれた。同氏の父親(1895-1941)は和歌山県出身の日本人である。第一次世界大戦に参戦後スマトラ島へやって来て、1930年代後半に帰国の途を選択したのだという。
 第二次世界大戦時、10代後半であったRidjojo 氏はスマトラ島近衛野砲兵第二連隊本部に勤務した。日本人の血を引く同氏は、第二次世界大戦時には日本軍に従軍し、インドネシア独立戦争(1945/8~1949/12)にはインドネシア国軍の一員として身を投じたのであった。そして同国独立後は北スマトラ州の州都メダンで新聞記者となり、日本に関する記事を中心に執筆した。また、インドネシア・日本間の友好親善、主に教育的・文化的交流に力を注いだ。加えて、同氏はメダンおよびその周辺に集住していた残留元日本兵である日系インドネシア人一世らと交誼を結んだ。つまり、インドネシア独立戦争の退役軍人として、日系一世らと同時代を生きた日本人である。
 本資料編では、Ridjojo 氏が1992年に作成した冊子Jembatan Emas Persahabatan Indonesia Jepang yang Abadi(日本・インドネシア友好親善永遠の金橋)の一部を日本語に翻訳して掲載する。200 ページ近いこの冊子の内容は、序文、同氏が戦時中に日本軍に従軍していたことを明証する証明書、イ・日間の友好親善の促進に対して贈られた感謝状、そして新聞記事(同氏の次女および五女の書いた記事も含む)となる。
 以下では、序文および計13の新聞記事を紹介する。序文と新聞記事① ~ ⑧ はRidjojo 氏によって、新聞記事⑨ ~⑬ は同氏の次女Mariko Djaya 氏によって書かれたものである。新聞記事からは、戦争という悲惨な出来事の最中でも「南方」と内地(日本)の人々との人間的な交流を垣間見ることができるだろう。

以下、序文および新聞記事すべての日本語訳はスヤント氏によるものである。

訳者紹介:
スヤント(Suyanto)、1972年にジャワ島東部のパスルアンに生まれる。スラバヤの大学卒業後、来日し日本大学大学院国際関係研究科に進学。2009年、同大学院より博士号(国際関係)取得。現在は、公益社団法人日本・インドネシア経済協力事業協会に勤務する。

『日本・インドネシア友好親善永遠の金橋』(メダン市,1992年1月1日)

『日本・インドネシア友好親善永遠の金橋』2-1
『日本・インドネシア友好親善永遠の金橋』2-2

         序  文
アッサラームアライクン ワルマトゥ ローヒワバロカトゥ

 アッラーに感謝の気持ちを伝え、預言者ムハンマドとその一族の平安を祈る。インドネシア政府にも測りきれない感謝の気持ちを伝え、今のように平和な時代に生きることができるのは、やはり1945年独立運動に「自由か死か」というスローガンで私心のない戦いを続けて、自らの命を犠牲にした英雄たちのおかげであることを一生忘れてはならない。
 年老いた私は残りの人生で45年の精神を次の世代に引き継いで行きたいと考えている。私は高齢となったが、インドネシアの退役軍人(LVRI)として同国の外交政策の理念である「自主性と積極的関与」にならい、外国の軍隊退役軍人との交流を行っている。また、次代を生きる人々に観光の重要性を理解してもらうために、観光に関する記事や資料などを収集している。
 現在、インドネシア政府は観光産業の振興に力を入れているのだが、ほとんど人間の手が加えられていない観光地を世界中の人々に楽しんでもらえればと思う。観光産業を盛り上げるためには環境保護や安全の保証なしに、観光客から注目されることはないであろう。そのために、早い段階で子どもたちに教育を施し、環境に対する意識を高めるのが肝要だと思う。私にできることは、この地域を訪問した観光客についてのレポートを書くことである。
 退役軍人としての私と同様に、この地を訪れた観光客の多くは退役軍人であり、とりわけインドネシアへ派兵された元日本兵たちである。戦時インドネシアに駐留していた彼らはこの地を歩き回り、辛苦を味わった。その経験を懐かしく思い、この地を再訪しノスタルジアを味わう観光である。「tempat jatuh lagi dikenang, konon pula tempat bermain (転んだ場所を想い、遊んだ場所をも想い)辛い想いをした場所は楽しい想いをした場所でもある」という諺がある。彼らは生前に、もう一度自分たちが遊んだ場所と転んだ場所に。この諺は私の精神および価値観に影響を与えている。多くの観光客が訪れるようになると、彼らは帰国する際に記念として観光レポートを書くようになった。
 彼らはこの地を再訪したことで、彼らの夢が叶った。それは大変喜ばしいことで、旅行中の感想と体験が記されたレポートを持ち帰った。日本に帰国後、彼らはレポートを複写し、友人や親族などに配った。このようなことを何度も繰り返し、多くの観光客がこの地を訪問することとなった。
 一般的にインドネシア人は日本に怨恨を抱いていない。過去には敵であり、酷い扱いをされたとしても、それを全て忘れ、今は両国の繁栄のために友人として助け合おうとしている。そんなことから、彼らの多くは、インドネシアは第二の故郷であると言い、第二の故郷に住みたいと言った。
 1970年代以降、私は精力的に観光に関するレポートを書き、歌や舞踊や小学生の絵画の交換といった日本・インドネシア間の文化交流を行っている。また、インドネシアの学生、婦人会、ボーイスカウトなどに折り紙の作り方を紹介している。子どものときから互いに相手の文化を学んでいれば、大人になったときにその子どもの頃の体験を思い出し、互いに両国の民間交流を続けていくことができるだろう。そうした理由から、本資料の題名を“JEMBATAN EMAS PERSAHABATAN INDONESIA JEPANG YANG ABADI” =日本・インドネシア友好親善永遠の金橋とした。
 本資料に理解を示してくれ平和を愛するインドネシア国民に感謝の意を伝えたい。そして、一般教育とイスラーム教育を与えてくれた両親に感謝と共に祈りを捧げたい。この地を訪れた日本のみなさま、とくにこの資料に関わっている方々にも感謝し、みなさまのご健勝をお祈りします。すでに亡くなられた方々のご冥福を祈る。
 自分の子どもたちには、夢を追い続けてもらいたい。そして、同じ人間として他人に親切に、悪事を働かないことによって、神の祝福を受けられると信じる。HABLUM MINALLAH, HABLUM MINANAS =神様と人間の関係は調和的である。
 いつも献身的に支えてくれた妻にも感謝し、妻の誠実な心の支えで私が正しい道を歩み、この資料を完成させ、人々の役に立つことができると願っている。子どもたちにも感謝と愛情を伝え、この夢を継続することを願っている。

①日刊パラパ(Harian Palapa)( 1977年 10月 13日(木))

忘れられた独立戦争の退役軍人

①日刊パラパ(Harian Palapa)

 1977年、インドネシア独立32周年記念を迎えた。我々は32年目の独立を記念したということになる。我々はインドネシア独立戦争の退役軍人として、同戦争で犠牲となった人々の眠る英雄墓地での追悼式、ムルデカ広場で行われるイベントなど独立記念日を祝福する大規模な式典に一度も招かれたことがない。独立戦争時代の多くの仲間は、政府官僚となっている。1945年憲法と建国五原則パンチャシラを国是とするインドネシア政府の下で今、健康に生きていられることを神に感謝する。
 以上、独立戦争の退役軍人(日系インドネシア人)であるウメダ氏の明かした想いである。
 私が今まで戦ってきたのはインドネシア独立に貢献するためであり、それは東アジア諸国を解放するという初期の大東亜戦争の目的に一致すると思う。この高貴な目的は一部の貪欲で戦争好きな人たちに悪用された。そして、その人たちはアメリカ、イギリス、フランス、オランダと同じようにアジア諸国を植民地化した。私は、日本帝国軍人として命令には従ったが、心の中では反対していた。その後、神の御心によって状況が180度変わり日本は敗戦を喫した。
 我々は絶好のチャンスを逃さなかった。所属部隊から逃亡し、インドネシア独立のために戦う部隊、民兵、青年団などに合流して、彼らと同じ夢を持ち、インドネシア独立を実現したいと断言した。今まで日本が強調して宣伝してきた「アジアからアジアへ」「日本・インドネシアは共にあれ」などのような独立である。
 独立戦争に参戦したとき、自分たちが持っていた武器だけを持って行った。全く手ぶらで逃亡した仲間もいた。しかし、我々は強い決心で、それまでの戦争の経験を活かし、新しい仲間に戦術、火薬の作り方などを教えた。我々のなかには薬に詳しい者もおり、衛生兵になった者もいた。インドネシア独立に貢献できる方法は他になかった。
 終戦後、我々は一般人に戻り、それぞれの持っている技術を活かして生活している。我々は今でも退役軍人として国家計画プログラムに従い、国を発展させようと戦い続けている。
 我々は独立戦争で犠牲になり、行方不明になった約150人もの仲間のことを思い出す。誰も彼らの墓参りに来ることはなく、もしくは墓自体存在せず、花束を供えることすらなかった。そのために、我々は記念碑を建て、毎年花束を供え、冥福を祈る。
 英雄であるにもかかわらず政府に認められず、名前すら知られてないのは残念である。しかし、我々は後悔していない。英雄には褒めの言葉や栄誉など必要ない、独立のために苦しい生活を強いられたが後悔はない。自分のしたことを自慢するのは本物の英雄ではない。
 以上は、デリ・トウアの日本人墓地で独立戦争の退役軍人の1人、ウメダ氏(日系インドネシア人)から聞いた話である。インドネシア国軍32周年の日を記念して、1945年〜1950年の戦争で犠牲になった仲間たちのために黙祷を捧げる。(リジョヨ)

②アナリサ新聞(Analisa)( 1977年 5月 26日(木))

日本人観光客8人 アチェの日本人墓地訪問

 昨日、大阪と東京から到着した8人の日本人観光客はバンダ・アチェおよびサバン島にある日本人の墓参りのために飛行機F–28でメダン市からアチェへ向かった。
 8人はインドネシア滞在中にさまざまな歴史的な場所にも訪れた。彼らはスマトラ第六十五隊所属の元日本兵だった。北スマトラをはじめ、インドネシア訪問の目的は、駐留時に過ごした町、その他建物などを見ることであった。彼らはシボルガ、パラパット、北タパヌリへ向かう途中、メダン駐留時よく休日を過ごしたシボルガ高原に立ち寄った。その8人の日本人観光客はイナダ氏が団長であり、その他メンバーはヒラセ氏、フクガワ氏、イガラシ氏、イケ夫妻、ゴンヤス夫妻である。

③アナリサ新聞(Analisa)( 1978年 1月 23日(月))

思い出を振り返る訪問

③アナリサ新聞(Analisa)

 日本の東京から墓参会160回北スマトラツアーズJTB というツアー団体、シラミネ団長と12人のメンバーが日本人墓地を墓参りするために北スマトラを訪問した。
 東京からシンガポール航空を利用し、墓参りの他に観光も行った。彼らの案内役となったのはリジョヨ氏であった。訪れた場所は、メダンフェア、デリ・トゥアの日本人墓地、ビンジャイにあるパダン・チェルミン日本人墓地など。アサハン県タナ・ラジャ盆地(セイブルの近辺)に行ったとき、彼らのことを知る住民と会った。そこで、現地の住民と話して、日本語とインドネシア語を混ぜて会話ができた。メンバーの1人はタナ・ラジャに派遣されていたとき悲惨な思いをした。
 1942年〜1945年の太平戦争時、駐在した9人の日本兵のうち、7人はこのタナ・ラジャで命を落とした。生き残った2人のうち1人は、仲間たちの墓の前で手を合わせ、冥福を祈った。北スマトラを後にする前に、ブラスタギ、パラパットなどの観光地にも立ち寄って、メダン市に戻った。
 北スマトラを訪問した印象はとても良かった。最初、インドネシア人は日本人に対し、恨みを抱いているのではないかと心配しているが、インドネシア訪問中に現地の人たちから歓迎されて、今までの心配事が一瞬なくなった。彼らは戦争中にインドネシア派遣された他の仲間を連れて来ると約束した。

④新聞社不明 (1978年2月22日(水))

思い出の町 プマタン・シアンタル

④新聞社不明

 1978年2月16日、東京から旅行団体キンポ・スマトラツアーが日本人墓地の墓参りと観光のためにやって来た。メンバーは22人で、団長はエバシ氏であった。東京からシンガポール航空を利用した。今回の訪問ではリジョヨ氏がガイドおよび通訳を務めた。
 1日目、シアンタルのカタレン市長を表敬訪問した。市長への挨拶の言葉は次の通りである。「35年前に住んでいたプマタン・シアンタルと現地住民との交流を懐かしく思う。この35年間で、この町は大きく変わったが、昔のままの建物も残されている。市長の歓迎に感謝する」。市長の言葉は、あなた方の訪問を暖かく歓迎したい。次回は他の仲間を連れて再び北スマトラに来て欲しいと願っている」。最後に市長と記念品の交換を行い、市役所の前で記念写真を撮った。エバシ氏はまだ少しインドネシア語を覚えていて、インドネシア語を交えて会話することができ、大盛り上がりだった。
 2日目、朝9時頃ゲレジャ通りにあるキリスト系中学校を訪問し、校門前でシマルングン地方の民族衣装を纏った女子学生に歓迎してもらった。また、学生たちが披露してくれた民族舞踊を楽しんでから、ホールへ向かった。まず、校長シトルス氏より、英語と日本語で歓迎の挨拶をいただいた。都市から遠く離れた場所で、日本語を話せるインドネシア人がいることは団員たちにとって好印象だった。
 次に、シトルス校長により団体の代表としてのエバシ氏はウロス(バタック族の伝統織り布)をつけられ、全員が一斉に3回“ホラス”の叫び声で歓迎した。エバシ氏は挨拶の中で、こんなに歓迎されるとは思っていなかったので、もう日本に帰らずそのままインドネシアに住みたいぐらい。プマタン・シアンタルは第二の故郷のようだと述べた。さらに、エバシ氏は「戦時、自分はこの学校に住んでいたことがあり、昔のままの建物を見ることができて嬉しかった。そして、学生たちに対しては将来、国や人々に役立つ人間になってもらいたいように願っている。最後に、日本とインドネシアの友好関係が永遠に続くことを願っている」と学校関係者に感謝の気持ちを伝えた。
 さまざまな歌と踊りが披露された。その中でもっとも彼らが興味を持ったのは、女子学生ユニタが歌った「愛国の花」という日本の歌である。関係者が彼らに「愛国の花」を一緒に歌えないかとお願いしたが、歌詞を良く知らないという理由で断った。学校の関係者の依頼に応えるために、リジョヨ氏は前に出て一緒に歌を歌って、みんなから大きな拍手が贈られた。最後に、日本から持ってきたお土産(文具やサッカーボールなど)を学校に渡した。
 記念写真を撮った後、彼らはパラパットに向かった。滞在最終日、メダンのダナウ・トバ・インターナショナルホテルにてメダン・ライオンズクラブとの交流会が行われた。メダンの有名な画家シナガ氏も出席した。メダン・ライオンズクラブはいただいた寄付を必ず必要とする人々に届けることを約束した。1978年2月19日の朝、彼らは旅行の思い出を噛みしめながら帰国した。

⑤日刊シナル・プンバングナン(Harian Umum Sinar Pembangunan)(1990年8月29 日(水))

元日本兵 南アチェへ懐古的訪問

⑤日刊シナル・プンバングナン

 西アチェ訪問団という18人の日本人旅行団体は、1週間で西アチェと南アチェを訪問した。団体メンバーの平均年齢は70歳、彼らはブランピデイ地方、タパクトウアン、テルバンガン、クルエト、バコナ、そしてトウモンシンパンを周り、カロ県境を通ってメダンに戻った。
 訪問団長は元タパクトウアン中隊長カツミ中尉であり、メダンのナトロブ旅行会社を利用した。ツアーの目的は、1942年~1945年にインドネシアに派兵されていたときの自分たちの思い出の場所をもう一度訪れることであった。
 アチェ訪問の折には、ガイドのボルダンシャー氏とジャリル氏(退役軍人)の案内で、西アチェと南アチェの役人とその地域の指導者たちに挨拶する機会があった。彼らは45年ぶりに訪問して、発展したアチェを見て驚いた。彼らは戦時にアチェ人と過ごした時間を(楽しいことも辛いことも)忘れることができない。この訪問は数年前から計画されていたようだ。「昔の思い出があって、今回私たちはここにやって来た」とカツミ氏が説明した。

入院
 オシカワ氏はバンダ・アチェに到着してから腹痛になった。彼はマハラヤテイ病院で診察してもらったところ、嵌頓ヘルニアと診断されたので入院して手術を受けた。彼は入院したため、バコンガンにいる友人に会いに行くことができなかった。6日間入院し、退院後にツアーから戻って来た仲間と合流した。
 ツアー最終日の夜、独立戦争でインドネシア軍に入隊した元日本兵たちとの同窓会が行われた。翌朝、メダンを後にして、シンガポール経由で日本に戻った。オシカワ氏は、マハラヤテイ病院での入院中に温かい気持ちを持って治療してくれ、看病してくれたお医者さん、看護婦さん、そしてそこで出会った他の患者さん、出会えた人々に感謝していると言った。さよなら。また会いましょう。

⑥日刊シナル・プンバングナン(Harian Umum Sinar Pembangunan)(1990年9月15日(土))

日記:第二次世界大戦 元日本兵 マツイ・トシオ氏(リジョヨ訳)

⑥日刊シナル・プンバングナン2-1
⑥日刊シナル・プンバングナン2-2

 18人の日本人旅行団体「懐かしのスマトラ再会の旅」は北スマトラを訪問した。彼らは1914年〜1921年生まれ、高齢の方々だが元気でしっかりしている。今回は、北スマトラからツアーをスタートし、西スマトラ、南スマトラをまわり、最後にジャワ島のバンドドゥンとジャカルタを訪ねた。
 南スマトラのパレンバンに到着してから、バスでスマトラ各地の観光地をまわり、その後もバスでバンドゥンとジャカルタへのツアーを続けた。ガイドのリジョヨ氏は、団長マツイ・トシオ氏からツアー日記をもらい、それをインドネシア語に翻訳した。インドネシア政府が打ち出した「1991年インドネシア観光年」にあわせて、インドネシア人の観光に対する意識が高まることを期待している。

1990年8月20日
 本日、愛するスマトラ島に到着した。1945年3月に砲兵連隊と別れて45年が過ぎた。シンガポールのチャンギ空港から、メダンのポロニア空港まで1時間10分しかかからない。東京から大阪までのフライト時間より少しかかる。メダンの北部にはベラワン港があり、戦時は同港に砲兵連隊の上陸が優先された。今回は時間がないので、ベラワンへは行けない。
 通貨レートは、1米ドル= 155円、インドネシア・ルピアに換算すると1,772ルピア。100米ドルを両替すると、180,000ルピアとなって驚いた。メダンの市内観光をした後、トゥビン・ティンギとプマタン・シアンタルを通り、パラパットへ向かった。日本の植民地時代にも、これと同じようなルートで移動したことがある。民家、線路、農園などを見ることができた。
 しかし、今回は昔と違って、美しい景色がたくさん見られるブラスタギのルートを通った。旅行会社からもらった北スマトラの観光パンフレットに書いてある通り、標高920メートルのトバ湖は別荘地になっている。トバ湖の真ん中に浮かぶサモシール島の住民はトバ・バタック族であり、サモシール島では多くの歴史的なモノが見つかっている。
 戦争時、そこはオランダ人女性と子どもたちの捕虜収容所であった。サモシール島のアンバリタ村では、昔のバタック族の王様(貴族たち)が利用した石の椅子を見ることができる。
今夜は、パラパットホテルに宿泊、シンガポールのホテルと比べてしまうと…そう悪くはない。

1990年8月21日
 今日はタルトンとシボルガを通って、良い思い出がたくさんあるパダン・シディンプアンへ。パラパットから東南方面へ向かうとポルセアに着き、そこからトバ湖の水がアサハン川に流れて行く。このアサハン川は、日本の協力によりダムが建設され、水力発電所として活用された。このダムの建設事業に多くの日本人が関わっていて、インドネシアへの技術移転が行われていた。
 次に、バリゲ、シボロン、ボロン、タルトンを沿って進んだ。日本の植民地時代、シボロンとボロンには「挑戦」という日本酒の会社があり、当時はとても有名だった。タルントンには温泉があり、日本人の間で大変人気だが、インドネシア人には温泉に入る習慣がないので、そちらの方には力を入れていない。
 第二大隊、第三大隊、物資連隊もこの地域に派遣されたことがある。さらに、砲兵隊から運転手の練習もここで派遣されたことがある。タルトンを後にしてから、ブキットバリサン山を上ったり、下ったりを繰り返すとやがて遠くにインド洋が見えてきた。その後、短いトンネルを通り抜けてシボルガに着いた。スマトラ島にはトンネルは1ヶ所しかなかったそうだ。
 シボルガには実弾の射撃練習所があり、第二中隊と第五中隊(第二十五ムルデカ合同旅団)は一時期にシボルガへ派遣されたことがある。その後、昔から住宅地として知られているパダン・シディンプアンに到着した。私は、住民の職業、収入源などを知りたいと考えた。私は、昔の兵舎、食堂などの日本軍に関連する建物の跡を見ることができなかった。町の入り口には「パダン・シディンプアン スネークフルーツの町」という看板があり、昔はその看板の前に、司令官の公邸があったという。昔パダン・シディンプアンは、タパヌリ県の管轄であったが、現在は北スマトラ州である。
(続く)

⑦日刊シナル・プンバングナン(Harian Umum Sinar Pembangunan)(1990年9月17日(月))

日記:第二次世界大戦 元日本兵 マツイ・トシオ氏(リジョヨ訳)

⑦日刊シナル・プンバングナン

スネークフルーツの町 パダン・シディンプアンでの歓迎
 サムドラホテルに着くと、すぐにマンダイリン式の歓迎パーティーに参加するように言われた。メンバー代表の1人は王様になり、きれいな現地女性がその王妃役となった。リジョヨ氏の説明によると、マンダイリン地方では客人は王様のように歓迎されるのだという。客人は民族衣装を着せてもらい、クリス(伝統の小刀)を帯につけてもらい、王妃役の女性と並んで座った。家来たちも後ろに並んでいた。太鼓と笛の音が流れ、パントウン(古い言い伝え)の声が聞こえた。このような説明があって、団体のメンバーたちはやっと状況を把握できた。そして、王様と王妃様はみなと一緒に民族舞踊のトルトルを踊ってから、乾杯する。“ホラス!!”
 1日だけ王様になった1914年10月15日和歌山県生まれのヒウラ氏は、その歓迎に感動した。このインドネシアでのひと時を一生忘れないと話していた。

1990年8月22日
 パダン・シディンプアンからブキティンギまでブキトバリサン沿いの道を進んだ。今日1日の移動距離なんと517キロ。日本軍政時代に比べて、今の道は広くて整備されていたが、脇道と登山用の道はあまり変わりがない。途中には金鉱山(金砂)があった。また、道沿いには標高の高い町がいくつもできており、ルブクシカピン町の赤道記念碑の周辺の道は広くなっている。
 私たちは、バタック族の祖地からミナンカバウ族の祖地へ移動した。ルブクシカピン町から少し南方に行くと、有名な赤道記念碑があるボンジョル町に着いた。赤道記念碑を見に立ち寄った。道路の左側にミナンカバウの伝統家屋のかたちをした大きな建物があり、イマム・ボンジョル博物館として知られている。そして、反対の右側にも大きな集会用の建物が建てられ、その両方の建物をつなぐ歩道橋もあった。
 赤道を通過した観光客に対して、ナトラブ旅行会社より記念の証明書が発行された。メラピ山(2891メートル)が見えてきたので、もうブキティンギに近いことがわかった。昔、ブキティンギには第二十五軍の基地があったが、その建物は現在まだ残っているかどうか、また残っていたとしてもどのように使われているのかわからない。

⑧日刊シナル・プンバングナン(Harian Umum Sinar Pembangunan)( 1990 年 9 月 18 日(火))

日記:第二次世界大戦 元日本兵 マツイ・トシオ氏(リジョヨ訳)

⑧日刊シナル・プンバングナン

 ブキティンギは涼しくて、千一夜とも呼ばれている。オランダ総督もブキティンギに住んでいた。ミナンカバウ地方は日本統治時代スマトラの西海岸州、現西スマトラ州である。街中にオランダの要塞、時計台などの歴史的建造物が残っており、インドネシアの文化遺産となった。昔、ブキティンギは「FOR DE KOCK(ブキティンギを征服したオランダ人の英雄)」とも呼ばれた。
 ブキティンギの西部には、有名な観光地として知られているシアヌク峡谷があり、この周辺も巨大な花ラフレシアが生えている。ゴムとプラスチックで作られた本物そっくりのラフレシアは、大阪の国立公園に展示されている。

1990年8月23日
 今日の予定は、ブキティンギ、ソロッ、サワーロント、インダルン、パダンへ行く。ブキティンギから約40 キロの地点にパダンパンジャンへ向かう分かれ道がある。西ルートで滝を通り、パダンに到着。東ルートで行くと、シンカラック湖を通りソロに着く。
 みなさん、間違いのないようにこの日本語での「SOLO= ソロ」は有名な曲「ソロ川=BENGAWAN SOLO」ではなく、最後に「K」が付いて、「SOLOK」という。ソロッから東に曲がって、約40キロの場所にサワーロントがある。
 サワーロントに初めて勤務したのは第二大隊所属時代で、最後にスマトラ中部国鉄会社に勤務した。オムビリンにある石炭鉱業は今でもまだ盛んに行われている。オムビリンから南西の方面へ行くと、インダルンに到着して、ここで生産したセメントはパダン市にあるテルク・バユル港まで運ばれる。第四砲隊および各中隊(第一中隊を除く)はインダルンに派兵されたことがある。インダルンでワタナベ中尉は連合国軍の空撃により命を落とした。当時の兵士の寮などはもうなかった。インダルンを下り、パダンに到着した。
 パダン市。パダン市はインド洋に面していて、昔は日本の第四軍の基地があった。北部にはタビン空港があり、ムアラホテル(旧ダイワホテル)もある。第四連隊は、グヌン・パンギルン地域にある空港の近くに勤務した。第92高原隊と高射連隊はパダン・シディンプアンから送られてきた第一大隊と第三大隊が同地区の防衛隊として活躍した。
 隊長となったのは、一人目はヒライシ中尉、二人目はイダ中尉、三人目はサクマ中尉だった。テルク・バユル港の近くの丘の上に南方向へ対空砲15CM が設置された。この高射部隊長は、第一大隊の兵器専門家ハサガワ中尉だった。ヒガシグチ中尉の下での防衛隊はグヌン・パンギルンへ派遣された。住民の話によると、グヌン・パンギルンの頂上には掩体壕があったが、現在は住宅に変わった。
 終戦を迎える頃、15CM 大砲がパダンの北部にあるパリマナンに運ばれ、ヒガシグチ中尉の代わりに、フクモト中尉が隊長となった。1945年4 月、突然敵の潜水艦が現れ襲撃を受けた。燃料タンクが破壊された。敵の潜水艦の襲撃に対して、15CM 大砲を用いて反撃できなかった。

1990年8月25日
 旅行団はテルク・バユルに到着した。昔のことを思い出しながら、15CM大砲の設置されていた場所、セメントインダルン港の反対側を眺めた。西スマトラ滞在最終日に、パリアマンを訪問した。日本軍の大砲が設置されていた跡地を見に行ったが、役場などの政府関連の建物に変わっていた。その役場から少し離れた場所に、コンクリートで作られた掩体壕があり、その上にはパリアワン市民の独立運動記念碑が建てられている。
 旅行団メンバーはパリアワン駅(現在、パリアマン市場)の近くにあるパリアマン海岸沿いを歩いた。この周辺には、まだまだ要塞の跡が残っていて、そのコンクリート部分を住民たちが家の塀として使用している。
 午後5 時に、ガルーダ航空 GA031便でパレンバンへと向かった。パレンバンで日本の空挺部隊が降下したのは有名である。

【メモ】 この旅行中、誰一人として戦争時代の自分の不幸を口に出さなかった。ただ、パダン旅行中にはパダン料理が彼らにとって辛すぎた。とくに、ノパン、サワーロントといったホテルや中華レストランのない地域へ行ったときは。パダン市、さようなら。

⑨ミンバル・ウムム新聞(Mimbar Umum)(1980年8月19日(火))

退役軍人の日記 独立日前の経験(1)
マリコ・ジャヤ

⑨ミンバル・ウムム新聞

1937年のタンジュン・ティラム……
 「Indonesia Tanah Airku(インドネシアは私たちの祖国だ)…Tanah Tumpah Darahku(私たちの生まれ故郷だ)…Disanalah Aku berdiri(そこに私たちは立ち)…Jadi Pandu Ibuku(母国の導き手となる)」というワゲ・ルドルフ・スプラトマンが作った国歌の一部で、タマン・シスワの指導の下の青年団がいつも隠れて歌う曲である。
 当時、この曲を公然に歌うと、必ず警察に捕まった。警察と聞くと、怖くなる。私は12歳くらいの時、私の村は都会から離れていて、インドネシア公立学校はなくて、オランダの植民地政府の学校とHIS(インドネシア人の貴族用の学校)しかなかった。オランダ学校で勉強したとき、マレー人(インドネシア人のこと)はオランダの植民地下にあり、インドネシアとの戦争で犠牲になったオランダ人は真の英雄である。一方で、インドネシア側の犠牲はただの反逆者だと洗脳された。私は母国の歴史について全く知らなかった。オランダ学校でインドネシアの歴史は一切習わなかった。私は三色の旗が国旗であり、王女はウィルヘルミナ女王であり、国歌はウィルヘルムスであることしか知らなかった。私は紅白の二色旗にについて何も知らなかった。
 私は、毎回ウィルヘルミナ女王の誕生日にきれいな服を着て、オレンジ色のマフラーを付け、オランダ人の管理者の前に生徒たちが全員並んで、三色旗を持ちながらウィルヘルムス国歌を歌った。「王女が長生きされますように...など」。その後、村の管理者は子どもたちに牛乳とパンを御馳走した。お母さんがいつも作ってくれたココナッツソースをかけた芋に比べて、高級なものだ。
 ボーとした私は、自分より年上の友達に声をかけられてびっくりした。「何でそのオランダの旗を持っているの、バカ!」と言われ、彼は直ぐに人ごみの中に姿を消した。彼は何でそんなことを言ったのかと不思議に思った。私の村の行事などで揚げられる旗はこの三色の旗しかなかった。しかし、盛り上がっている競走会、縄引き大会などを見て、一時的にこの不思議な思いは頭から消えたが、オランダの国旗について友達から言われたことがなかなか頭から離れない。私の父は、貧しい農家で、政治に興味がなく、それとも怖いため子どもたちには祖国のために命を落とした英雄について教えてくれなかったかも知れない。1937年に日中戦争が起きて、1940年にドイツはポーランドへ侵攻しはじめ、ヨーロッパを侵攻した。第二次世界大戦も始まった。

⑩ミンバル・ウムム新聞(Mimbar Umum)(1980年8月20日(水))

退役軍人の日記 独立日前の経験(2)
マリコ・ジャヤ

⑩ミンバル・ウムム新聞

 日本軍は東條陸軍大将の下で、アジア各地に侵攻しイギリス軍とアメリカ軍に対抗する準備を進めている。大東亜戦争は避けられなかった。1941年12月8日、日本帝国の海軍と空軍はハワイ島の真珠湾にあるアメリカ海軍基地を攻撃した。午前8時半頃、日本兵は私の村に上陸、オランダ軍と海上保安隊は抵抗することなく、朝早くに逃げてしまった。インドネシア人の自警団メンバーは日本兵の上陸を知り、直ぐに制服を脱いだ。
 私は、朝早く港に上陸する日本兵の様子を見に行った。遠くで何隻もの大きな船が並んでいて、数千人の日本兵を降ろしていたのを見た。日本兵は背が低く、丸坊主で、全くわからない言葉で話すことを不思議に思った。二色旗で、白い背景の中に丸い赤色。後日、これは日の丸という日本の国旗であることを知った。日本兵上陸の一か月後、全ての屋台の壁に「Nippon-Indonesia sama sama na !(日本とインドネシアは共にあり)」「 アジアのためだ」「日本語を学べ」と書かれた貼り紙がそこら中に貼られている。何もわからないが、日本はオランダを追い出すためにインドネシアにやって来たそうだ。
 今、私は5 年生を終えたので、もう学校へ行かない。これから学校で学んだ知識を活かし、出稼ぎに行きたい。母に出稼ぎのことを相談したとき、この戦争の最中でやはり母の心配する気持ちが大きいので、行かせてくれない。無理に説得し、短期間であればという条件で許してくれた。翌日、母に見送られ学校の友達と一緒に自転車に乗り135キロ離れたメダン市へ。私は生まれて初めて遠くまで出かけることができとても嬉しかった。途中、学校で習った歌を歌いながら、自転車を漕いでいると、時々日本兵の護送車とすれ違った。
 その時、恐怖心はあったが思い切って手を振ってみたら、「万歳!」と返事してくれた。私は嬉しくなり、日本兵は怖くないと思えた。その後、日本兵に会うたびに、「万歳!」と言うようになったが、「万歳」の意味はわからなかった。メダン市までの道中、とくに問題は生じず、途中で出会った村人たちも喜んでいるように見えた。

⑪ミンバル・ウムム新聞(Mimbar Umum)(1980年8月21 日(木))

退役軍人の日記 独立日前の経験(3)
マリコ・ジャヤ

⑪ミンバル・ウムム新聞2-1
⑪ミンバル・ウムム新聞2-2

 トゥビン・ティンギの川に着くと、橋が破壊されたため、自転車から降りて自転車を押しながら、板の上を歩いて壊れた橋を渡った。オランダ軍は撤退したとき、追いかけてくる日本軍の足止めのために橋を破壊したとみられる。道端の大きな木の下で休憩しながら、昼ご飯を食べた。食べ盛りの私は母の手作り弁当を一粒も残さず美味しくいただいた。午後5時頃、メダン市に入りそのままプリ通りにある友達の兄宅に向かった。彼は私たちを見て、こんなに混乱した状況下でずいぶんと遠くから自転車で移動してきたことに驚いた。お兄さん一家は私たちを温かく歓迎してくれて、水浴びと少し休憩してから、ご飯をご馳走してもらった。その夜、一日中で自転車を漕いで、体がとても疲れてぐっすり寝た。
 翌朝、朝食の後メダン市内へ友人と散歩に出かけ、その友人があちこち案内してくれた。メダン市のような大都市を見に行くことができて、嬉しくて一生忘れない。ケサワン地区には州庁や郵便局など立派な建物が立ち並ぶ。各事務所の前に立てられた日の丸がはためいている。誰一人も日の丸を軽視することが出来なかった。
 日本の植民地時代。私は成功するまでは自分の生まれ育った村には帰らないと決心した。友人の紹介で、私は国鉄会社に就職できた。一方、同じ村出身の友人はメダンの学校に進学した。友達が増え、多くの経験もした。日本語の勉強が必要で、夜には日本語学校に通った。ある日、子ども新聞を読んだ。その新聞の編集部はオジイサマ(ムナルS ハミジョヨ)、A ダーラン(ビンタンインドネシアメダン編集長)、ロースリラ A タヒル(現在 交通局長のA タヒル中将婦人)、ダウドユスフ(現在文化教育大臣)、シャムスデイン マナン(現ミンバルウムム編集長)など。
 メラティ子ども新聞。私は新聞に興味があり、編集部へ手紙を書き、メラティ協会に入会できるようにお願いした。メラティ協会は元タマン・シスワの先生であるハミジョヨ氏によって設立された。
 新聞に新人紹介として記載された。私は市内だけではなく、遠くのコタラジャ、バンダ・アチェ、パレンバン、ランプンなどの同協会のメンバーからたくさん手紙をもらった。私は積極的にメラティ協会の活動に参加するので、他のメンバーに好かれていた。
 メラティ新聞は日本の植民地政府によって認可された新聞の一つであり、その中身は若者の指導および教育で、将来的には日本軍に協力することを期待された。しかし、実のところメラティのメンバーたちは短編、詩、歴史書などを通して、インドネシアの若者たちに対し愛国心および国としての団結を説いている。
 1944年……私は「日本・インドネシアは共にあれ」「日本は先輩、インドネシアは後輩」「アジアはアジアのために」という日本のスローガンに疑念が生じてきた。実際のところ、インドネシア人は苦しい生活を強いられているのが現実だ。彼らは、十分に美味しいご飯が食べられ、塩、砂糖などにも困っていない。一方インドネシア人はとうもろこしと芋しかなく、ちゃんとした服も着ることができない。さらに、インドネシア人は勤労奉仕を強いられ、日本軍の要塞建設に送り込まれた。労務者として昼夜関係なく敵の攻撃を監視させられ、また十分に食事を与えられないので、多くのインドネシア人は病気で亡くなった。そのような状況を見た私は本当に不公平だと思った。
 私は心の中で反対したいが、自分の力が足りない。戦いのための武器など一つもなく、一人で戦いに行くともちろん無駄死にするだけのこと。それ以来、私は民間人として働くのは悩んでいて、ちょうどその時日本軍には民兵としての募集があった。私はメラティ協会の活動から離れ、日本軍の指導により訓練を受けている。私は最前線で戦うと決心し、一方同協会の仲間達は後ろで子ども新聞を通して日本軍に抗う。
 アチェ地方、1945年。私は兵士となった。これで日本軍の命令に従わなければならない。私は戦争戦略、さまざまな武器の使い方などを学んで、キノモト部隊(砲兵隊)に所属した。兵士になるためにさまざまな訓練を受けて大変だったが、母国に貢献するためにはこれしかなかった。毎回の体育訓練で、私は他の仲間よりも高く評価され、そのためにキノモト部隊に属されるインドネシア人は私一人だけで、他のメンバーは全員日本人の兵士である。私はインドネシア人でありながら、高い日本精神を持ち、部隊の仲間と直ぐに仲良くなり、周りから好かれた。(実の兄弟よりも戦う仲間の方が高貴だ!)。
 隊長となったキノモト大佐はいつも私の高い評価について報告を受けている。ある日、キノモト隊長に出頭するように命令があり、私は何か悪いことをしたのか、それとも私の心情がわかってしまったのかとドキドキした。隊長の事務所に着くと、ヤマシタ補佐官に「敬礼!」といい、隊長の部屋に案内された。キノモト隊長の前に立ち、「きをつけ!」「敬礼!」と挨拶すると、キノモト隊長は笑顔で迎え、「やすめ!」と言って、私に話しかけた。

⑫ミンバル・ウムム新聞(Mimbar Umum)(1980年8月22日(金))

退役軍人の日記:独立日前の経験(4)
マリコ・ジャヤ

⑫ミンバル・ウムム新聞
⑫ミンバル・ウムム新聞

 「何のために来てもらったのかわかりますか?」と聞かれ、私は「いいえ、わかりません」と答えた。「日本は連合国軍に無条件降伏した!これは天皇陛下の命令で従わなければならない。日本軍は捕虜となっている。連合国軍司令官からの指示が下されていないので、この地域の安全を維持すること」と説明された。「インドネシアは国家主権の移譲の手続きをとっているので、その間日本とインドネシアの間で争いが生じぬよう、リジョヨを日本軍の通訳として任命する」と言われ、私は「はい」と答え、兵舎に戻った。
 私は心の中で「やったあ!」と叫んだ。今、インドネシアは独立の時だ。ずっと待っていた。しかし、私は慌てて無謀な行動をしてはいけない。私の所属部隊はアチェから撤退し、シマルングン地方へ移動した。今はもう訓練などはしない代わりに、犯罪を起こしたり、逃亡したりする日本兵を監視するよう命令された。重兵器は兵器廠にしまい、大砲の弾、手榴弾、爆弾などはトバ湖に沈められた。私は、一週間で武器を処分した。その仕事は大変だったが、トバ湖周辺を散策できるので嬉しかった。
 1945年9 月。シマルングン地方へ派遣された時、住民たちは日の丸の旗ではなく、紅白の二色旗を揚げていた。それを見た私は心臓が高鳴り、インドネシアは独立したのだと感じられた。厳しい規律があり、簡単には基地から出られないため、外の状況がわからない。1945年8月17日に独立宣言をしたのは本当のようだ。しかし、シマルングン地方にその独立宣言の情報が届いたのは9月頃であった。
 住民たちはラジオ放送を聴いて、すぐに二色の旗を揚げた。兵補と義勇軍は解散、各々の実家に戻った。残念なことに、私はまだ任務から外されてないが、それは時間の問題だろうと思う。私に課された任務は、プマタン・シアンタル市内を夜パトロールすることである。TRI(インドネシア人民軍)や民兵などはそれぞれの持ち場に集まっている。彼らは竹槍などさまざまな武器を持って守衛している。
 現在、インドネシアには政府と国軍が存在し、大変誇りに思う。ある日、仲間たちが集まって大変大事な話をしているようだった。マルパウンの部隊が武器を強奪するために日本軍の基地を攻撃しに来るから、それに備えよとの命令が下された。兵士全員の基地から外出が禁止された。私は黙って、今夜基地から逃亡することが出来るのではないかと考えている。仲間たちは私の方にやって来て、「隊長の通訳者だ!」「最愛の兵士だ」と言い、その後も「我々の命だけ助けてください!」とみんなは私にお願いした。さらに「インドネシア軍が来るとき、私たちは優しい兵士なので、殺さないようと言ってください」、「彼らが来ても、反撃せずに武器を捨てるから」と話した。
 彼らにもう戦意はなく、武士道精神も失われているようだ。彼らはただ日本に無事帰還し、家族と会いたいのだ。私は冗談で「じゃ、みんなは命を落とすつもりなの!何で急に弱虫になるんだ!日本精神はどこだ?」と言うと、「本当に助けてくださいよ!リジョヨ、君に従うから」と彼らは答えた。私は「私たちインドネシア人はあなた方を殺したりしない。あなた方を助けるから」と彼らを安心させた。
 私は続けて「インドネシア人の闘争の『ムルデカ』という合言葉を覚えて下さい。基地が攻撃された時は、全員でムルデカ、ムルデカ、ムルデカと叫んで歓迎しようじゃないか」と説明した。彼らは素直に「はい、わかりました」と答えた。実際に、合言葉ムルデカの叫び声で、インドネシア軍が日本兵に対して発砲することはなかったものの、その際日本側はすべての武器をインドネシア側に引き渡した。後にこの出来事を思い出して一人で笑った。インドネシアは本当に独立した。これは1928年に宣言した「青年の誓い」通り、一つの国家、一つの民族、一つの言語である。
 私は、日本兵の仲間が自分と同じ気持ちになって興奮した。私はすぐに自由になり、仲間達は何があっても発砲せず、自分たちの武器をインドネシア人に引き渡した。自分がインドネシアの闘争に貢献できた気がした。
 1945年10月。私は警備の任務が終了し、一等兵に昇級させてもらえた。これで故郷に帰ることができる。仲間たちから服、毛布、タオルなどの多くの記念品をもらった。ある年輩の兵士から刀をもらって、「若者よ、これをあなたに差し上げる。大事にして下さい。」と言ってく れた。また、隊長は私の帰宅のために必要な準備をするように命令を下した。そして、何人かの日本兵の仲間は田舎にある実家まで送ってくれた。母はうれし涙を流して迎えてくれた。わが子が無事に帰ってきた神に感謝した。
 その後、母は戦友たちにご御馳走した。仲間たちは、少し休憩してから、母に別れを告げた。「起立!お母さんの子どもは無事に戻りました!これから独立したインドネシアでご活躍されることを願っています。我々はこれから日本に戻り、敗戦で破壊された母国を建て直します。この大東亜戦争があって、自分たちの過ちに気づきました。20 年後にまだ生きていれば、この地に戻って来て、インドネシアの発展に貢献します。私たちの指導者は、日本・インドネシアは共にあるというスローガンを悪用したが、結局敗戦した」と別れの挨拶をした。私は母に挨拶の内容を伝えた。すると母は涙を流しながら、さようなら、無事に日本にいる家族と再会できますようと言った。仲間たちは一斉にお辞儀して「ありがとう!さよなら!」と言った。私たちは強く握手し、別れた。

⑬ミンバル・ウムム新聞(Mimbar Umum)( 1980 年 8 月 23 日(土))

退役軍人の日記:独立日前の経験(終)
マリコ・ジャヤ

⑬ミンバル・ウムム新聞

 1945年11月。私の故郷の村は海岸沿いに位置するので、村の仲間と共に若者たちを指導し、インドネシア海軍を組織する活動に積極的に関わった。海軍は、独立のために動き出したばかりのインドネシアの再植民地化を目論む連合軍から守るために必要不可欠である。今、オランダ軍は傭兵と共にインドネシアの国権を無視して侵略してきた。インドネシアとオランダの協議→戦争→ゲリラ→撤退を経て、インドネシア共和国が成立したが、あちこちで不満の声が聞こえた。インドネシア国民は一貫して国民国家インドネシアの成立を訴え、独立か死かとなった。
 最終的に、インドネシアは独立した国民国家となった。インドネシア人は日本に対して恨みを抱いていない。30年が経過した今、日本は再びインドネシアに来てさまざまな支援を提供してくれている。アジア諸国の繁栄のために互いに協力し、日本とインドネシアは共にあると言えるようになった。スハルト政権の下、そして建国5原則パンチャシラと1945年憲法に基づき、またアッラーの導きによりインドネシアの全ての国民・地域が繁栄することを祈っている。

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