Reexamination Of Japanese “Southern” Experience

from The 1920s To 1950s

日本人の「南方」経験の再検討

-グローバル時代の新しい歴史像の構築に向けて-

オラン・ジュパンとなった日系インドネシア人一世たち―スマトラ島北スマトラ州の事例から―

伊藤雅俊(日本大学 国際関係学部 国際教養学科 助教)

English ver.

はじめに
 日系インドネシア人とは、太平洋戦争時にインドネシア各地に派兵され、終戦後に何らかの理由や自らの意思によって帰国せず、インドネシア独立に関与し、さらに同国独立後に帰国を選択しなかった残留日本兵(日系一世)(1)およびその子孫(日系二世以降)のことである(2)。
 他方でオラン・ジュパン(orang Jepang)とは、インドネシア語で日本人の意である(3)。しかし本稿においてオラン・ジュパンと表現した場合、その字義通りに日本人一般を指すのではなく、日系インドネシア人一世のことを指す(4)。
 本稿の目的は、北スマトラ州に生きた日系インドネシア人一世がどの程度の多民族的状況下で、どのようにしてオラン・ジュパンと見なされるようになったのか、その経緯を他民族からのジュパンという範疇化に焦点をあてて考察することにある。
 残留日本兵をルーツとする日系インドネシア人一世は、終戦後インドネシア国軍や非正規軍に入隊し、武器の修理・製造に従事したり、現地人に軍事訓練を施したりするなどしてインドネシア独立戦争(1945/8~1949/12)にかかわった。各々異なる方法で同国独立に寄与したのだが、同国において未だに広く知られるまでには至っていない。
 また、インドネシア人女性と結婚した日系一世は、現地文化・社会へ同化せざるを得ない状況に置かれていたため、日系二世以降の日系人は日本文化または日系文化と呼べるような、他者が客観的に観察し得る文化・慣習をほとんど維持していない。というよりかは日系一世から二世へほとんど継承されてこなかった(5)。加えて、日系二世から四世までの総数はインドネシアの総人口およそ2億7,000万人の0.01%にあたる2万7,000人にも達しないだけでなく、日系人は同国において一つの民族集団として扱われていないため、その人数は人口統計にも表れない。同国において文化的・社会的・歴史的にあまり認知されていない人々であると言えよう。
 それでも、日系インドネシア人は現に存在している。ある日系二世は、父親の写真を見せてくれ「(首元に付けられたバッジを指さして)これがインドネシア国軍のバッジです」と誇らしげな表情をする。ある日系二世は、テレビの前で深夜遅くまでサッカーワールドカップの日本代表チームを応援し、日本が敗戦を喫した際には悔し涙を流す。また、ある日系二世は東日本大震災の翌朝から、瞼を腫らせたまま仲間の家々を回り募金活動に奔走する。なぜそのようなことをするのだろうか。理由は単純である。日系インドネシア人であるからだ。
 それでは、スマトラ島における日系インドネシア人は、何をもって「私(私たち)は日系インドネシア人である」と自らを同定しているのだろうか。つまり、彼らの日系人意識(日系アイデンティティないしはエスニシティと言い表せる)の根底に横たわっているものは一体何なのであろうか。それは、父親または祖父がインドネシアに残留し、同国独立に貢献したという共通の歴史的記憶およびそこから生ずる誇り(rasa bangga)であると説明できる。また、同郷意識、家庭内で日系一世から受けた影響、そして1990年以降の渡日就労を通じた日本文化との接触などが複雑に絡み合って、日系インドネシア人であると主張し、行動する日系二世・三世の存在を成り立たせているのである(6)。
 以上のように、筆者は現に存在している日系インドネシア人とはどのような人々であるのかという問いを明らかにしようとこれまで多角的に調査研究を展開してきた。日系一世だけを研究対象とし、〇〇ジュパンという他者からの範疇化に焦点をあてる本稿は、筆者の問いをさらに究明することにつながる。
 本稿の内容は、筆者が2008年9月から2018年9月まで、北スマトラ州の州都メダンにある福祉友の会メダン支部を拠点として断続的に実施してきた民族誌的フィールドワーク、とくに2010年4月~2011年3月の長期的フィールドワークで得られた成果に基づく。

1.背景と先行研究
1.1.本稿の視座

 ブラジルの日系人研究で著名な前山隆は、ブラジルへ渡った日本人移民たちは移住先において「日本人」になったと述べている(7)。日本人移民、つまり日系ブラジル人一世は多民族国家ブラジルという枠組みの中で、たとえば日本食に対してブラジル食、日本学校に対してブラジル学校と認識するというように、現地の主流文化と自文化とを対比した(8)。また、日本人移民の大多数がブラジルでの生活を開始したコーヒー・プランテーション内には、一般的にイタリア系、ドイツ系、スペイン系なども労働者として混在していた。そうした状況下で彼らは周りからジャポネースと呼ばれ、日本人として扱われた。そして彼ら自身も次第にますます日本人になっていったのだという(9)。すなわち、日系ブラジル人一世は多民族的状況下において、上記のような作業を通じてそれまで自明のものであった「日本」を意識し、自らが「日本人」であることをそれまでとは異なった次元で認めるようになったのである。
 無論のこと、ブラジルの多民族的状況とインドネシアのそれとはまったく背景および文脈が異なり、かつ日系一世の歴史的背景や人数、また彼らの置かれた文化的・社会的文脈も異なるのであるが、前山の観点に依拠すると、残留日本兵である日系インドネシア人一世もまた、日本にいる限りは「エスニックな日本人」、オラン・ジュパンにはなり得なかったのだと言えよう。

1.2.先行研究と本稿の位置づけ
 日系インドネシア人一世とその配偶者、ならびに日系一世の相互扶助を目的として1979年に設立された福祉友の会(10)を対象とした歴史学・文化人類学・社会学的研究はこれまで多くなされてきた(11)。なかでも林の研究は、ジャワ島各地における日系一世との長期的かつ綿密な聞き取り調査、および豊富な文献資料を基に詳述されており、日系インドネシア人研究に多大な功績を残している。
 他方、既存研究が扱ってきた研究対象地域には地理的偏りが見られる。それは、スマトラ島北スマトラ州メダンとその周辺に日系インドネシア人が集住しているにも関わらず、伊藤と吉田以外の研究はジャワ島における日系一世および福祉友の会、または同会ジャカルタ本部を研究対象としている点である。したがって、スマトラ島に生きた日系一世の民族誌的研究となる本稿は、決して十分な研究がなされているとは言えない同島の日系インドネシア人研究の発展に寄与できるだろう。
 続いて、本稿の内容と関連するスマトラ島の日系一世を研究対象とした筆者の拙稿をいくつか挙げる。たとえば、北スマトラ州の州都メダンおよびその周辺に生きた日系一世同士の交友関係を明らかにし、彼らの培った関係は日系二世・三世の時代となった今日でも継続していることを示した(12)。また、メダンが日系インドネシア人の集住地域となる過程を、日系一世のスマトラ島上陸から日本敗戦、インドネシア独立戦争時、そして同国独立後にかけての彼らの移動を辿ることによって明らかにした(13)。
 一方、吉田は北スマトラ州において日系一世の配偶者13人とその家族に実施したインタビュー調査を基に、日系一世が異なった文化的環境でどのような生活を営んでいたのか報告している(日系一世の家庭内で使用言語や食事、また改宗、職種、日本との人的・文化的交流など)(14)。同研究が示しているように、日系一世の配偶者の民族は多様である。また、異文化結婚自体が異文化との交流ではあるものの、同研究は主に家庭内での異文化接触に着目したものとなる。
 以上のように、スマトラ島における日系インドネシア人一世に関する既存研究は、多民族社会という文脈に位置づけてなされたものではない。それに対して、本稿はオラン・ジュパンという個人および集団は、家庭内の枠を超えてインドネシア社会で他民族との接触があり、相互作用が働いた結果生じたことを解明するものとなる。

1.3.研究対象地域の地域性および多民族性
 地域性
 本項では、まず研究の背景として北スマトラ州メダンの地域性について述べる。インドネシア全土の日系インドネシア人一世が福祉友の会設立に乗り出した1970年代中葉から、彼らはスマトラ島で残留した者を「スマトラ組」、ジャワ島で残留した者を「ジャワ組」と呼び合うようになる。日系一世の絶対多数が両島に集中していたためであって、「バリ組」や「スラウェシ組」という表現はされていない。
 日系一世はスマトラ島とジャワ島にそれぞれ150人程が暮らしていたと推察できるが、スマトラ島には日系一世の集住地域があるのに対して、ジャワ島には集住地域がないといいう違いが両島には見られる。スマトラ島の北スマトラ州メダンは、日系一世の時代からインドネシアにおいてもっとも日系インドネシア人が集中している地域であり、今日ではメダンとその周辺に日系二世から五世まで推計3,000人が暮らしている(15)。このように、北スマトラ州、なかでもとりわけメダンは日系人を個人単位だけではなく集団単位で研究することが可能な地域となる。

 多民族性
 以下、日系インドネシア人一世がどの程度の多民族的状況下で○○ジュパンと範疇化されていたのかを示すために、研究対象地域の多民族性および日系インドネシア人一世の配偶者の民族について記述する。
 既述の通り、日系一世の時代から北スマトラ州の中でもメダンは日系インドネシア人の集住地域であるため、ここでは日系一世が生きた時代のメダンの民族構成比率を示す。メダンの民族構成比率は、1960年時点でジャワ人46.2%、ミナンカバウ人13.5%、ムラユ人13.1%、マンダイリン・バタック人11.36%、スンダ人2.9%、バタヴィア人2.7%、トバ・バタック人2%、その他バタック人3.8%などとなる (16)。
 1981年時点ではジャワ人29.4%、トバ・バタック人14.1%、華人系インドネシア人12.8%、マンダイリン・バタック人11.9%、ミナンカバウ人10.9%、ムラユ人8.6%、カロ・バタック人4%、アチェ人2%となっており、2%以下のスンダ人、シマルングン人などが存在した (17)。
 多民族国家インドネシア全体の民族構成比率を見てみると、各州、さらには県や市単位によって、ある特定の民族が70~90%、または50~60%の割合を占める場合と、目立った民族集団が存在しない場合とがある。日系インドネシア人の集住するメダンは(北スマトラ州全体的に見ても(18))、主要な民族集団と主流文化の存在しない後者に当てはまる。

 日系インドネシア人一世の配偶者の民族
 日系インドネシア人一世の一部は日本軍政時代(1942/3~1945/8)とインドネシア独立戦争時に、大半は同国独立後にインドネシア人女性と結婚した。以下に、スマトラ島の北スマトラ州とアチェ州で生きた日系一世105人の配偶者の人数と民族を示す。
 日系一世105人に対する妻123人の民族は、ジャワ人52人、華人系インドネシア人30人、マンダイリン・バタック人14人、アチェ人8人、マナド人4人、ムラユ人3人、カロ・バタック人2人、ミナンカバウ人2人、以下アンボン、ガヨ、韓国、スンダ、タミール、ニアス、バタウィ、バンジャル各1人となる。日系一世とその妻の人数が一致しない理由は、日系一世105人のうち第二夫人を持つ者が15人、第四夫人まで持つ者が1人いるからである(図表1参照)。
 日系インドネシア人と言っても、母親の出身民族の相違によって、多様な出自を持つ日系インドネシア人が存在する。また、多民族社会インドネシアの中に、日系インドネシア人の集団が存在しており、さらに日系インドネシア人の集団内に多民族性が内包されているのである。

民族人数
1ジャワ52人
2華人系30人
3マンダイリン・バタック14人
4アチェ8人
5マナド4人
6マライユ3人
7カロ・バタック2人
8バンジャル2人
9ミナンカバウ1人
10アンボン1人
11ガヨ1人
12韓国1人
13スンダ1人
14タミール1人
15ニアス1人
16バタウィ1人
123人
図表1 日系インドネシア人一世105人に対する妻123人の民族別人数
出典:筆者の2010/4~2011/3のメダンにおけるフィールドワークの成果を基に作成

2.ドクトル・ジュパン
 日系インドネシア人一世の職種に関して特筆すべきは医療従事者、通称ドクトル・ジュパン(インドネシア語で俗称Doktor Jepang、正式名称はMantri Kesehatan Doktor Jepang)が多かったことである(19)。アチェ方面で残留した残留日本兵のおよそ100人の三分の一はドクトル・ジュパンをしていたことがあるという記述が見られるほどである(20)。

2.1.インドネシア独立前
 国文学者の萩谷朴(1917-2009)は、1943年5月に近衛師団の一員として北スマトラ州メダンの外港ブラワンからインドネシアに入国し、同州カバンジャヘ、シアンタル、アチェ州ロクスマウェ、プルラなどの野戦病院や野戦倉庫で種々の任務を遂行し、終戦後無事に帰還した。同氏の回想録には、戦時中にドクトル・ジュパンの走りと言えるような、アチェ人に医療行為を施した体験が綴られている。
萩谷は1944年の一時期、アチェ州クアラ・シンパンの野戦倉庫において壁材の生産現場の監督を務めていた。現地に着いて翌朝、作業場に行くと作業員が4人しかおらず、その事情を人夫頭に尋ねたところ、病気で仕事を欠勤する作業員の多いことがわかった。そこで、翌日から病気欠勤者の見舞いをすることにした。
 1人目の作業員は熱帯潰瘍を患っていた。萩谷は扁桃腺炎などの用心のために携帯していたテラポールという錠剤を5錠、拳の上に指先ですり潰してその粉末を潰瘍面に振り撒き、包帯をした。続いて、マラリアを患っていた他の作業員に対しては、手元にあった30錠のキニーネを半分ずつ与えた。それから数日後、同氏は仕事帰りに数十人の村人に囲まれてしまった。気骨のあるアチェ人による日本軍への抗議ではないかと考えたが、用件は自分たちにも治療を施してほしいとのことであった。巡回診療の評判が村中に広まり、すでに郡長の耳にまで入っていたのである(21)。
 そもそも萩谷は軍医や衛生兵ではなく、自身のために薬を携行していただけであって、作業員たちにキニーネなどを分け与えた時点で携行薬は底をついていた。したがって、病に苦しむ村人の要望を謝絶せざるを得なかった。同氏は当時の心境を「もしサルファ剤が残っていたとしても、野戦倉庫の仕事をしている人たちを助けるのが精一杯で、とても村中の病人の面倒は見きれるものじゃない。良かれと思ってしたことが、こんな多勢の人たちの空しい希望を抱かせたのだから、かえって罪の深いことだ。一日巡回診療のニセ医者はこうして退散するほかはなかった。できることなら、トランク二杯分くらいの新薬を携行して、至るところの難病人を治療してやれたら(22)」と記している。
 続いて、インドネシア独立戦争時に北スマトラ州キサランで医療行為を行っていた長谷川豊記(1917年生まれ)を紹介する。タイを経由して帰還した同氏は、1982年に『スマトラ無宿 虎憲兵潜行記』を著している。インドネシア独立戦争時、華人系女性と行動を共にしていた長谷川は、その女性に自転車と薬品籠を購入してもらい、また現地の人々の協力を得て薬品等を原価に近い値でわけてもらったという。そんな同氏の医療の知識は軍隊当時の衛生救急法だけであったようで、「能弁のヤブ医者の処方が癒やすのではなくて、薬を知らぬ現地人の身体に、薬効が著しかっただけの話である」とドクトル・ジュパンとしての時分を述懐する(23)。
 患者たちから信用を得られ、人から人へ、村から村へとその評判が広まっていったのは、萩谷と同様にマラリアや熱帯潰瘍の薬や日本軍の残したクレオソートなどを持っていたことに尽きる。両氏の他にもインドネシア人に医療行為を施した者がいたことから、1950年のインドネシア独立以前に現地の人々だけでなく残留者の間にもドクトル・ジュパンの存在は広く知れ渡っていたのかもしれない。

2.2.インドネシア独立後
 インドネシアが独立を達成した1950年代以降に、アチェ州ランサ、ロクスマウェ、北スマトラ州メダン、アサハン、キサラン、コタ・ノパン、バタン・クイス、トゥビン・ティンギ、ビンジャイでドクトル・ジュパンとして診療所を開業していた、または薬売りを生業としていた日系インドネシア人一世をその子どもや孫たちから、また当時の日系一世を知る非日系人から筆者は確認している(24)。
 医師としての正式な免許を持たずに開業したドクトル・ジュパンたちは、仲間内では日本語でヤブ医者と呼び合っていたようだが、診療を続けていくうちに医者らしくなっていったのだという。そんな彼らではあるが、困窮する患者からは治療費の代わりに野菜や果物を受け取り、夜間でも村人が駆け込んできて助けを求められれば、昼夜問わずすぐに往診にかけつけた。
 地域住民から重宝された理由は他にもある。異国の地からやって来た日本人であるということに加えて、そのオラン・ジュパンに診てもらうと大概の病気が治ったからである。また、当時はプスケスマス(pusat kesehatan masyarakat、略称puskesmas)と呼ばれる地域診療所がなかった、田舎に住む人々からすればオランダ植民地時代に建設された病院が地理的に遠かった、という理由も挙げられる。このように、ドクトル・ジュパンは地域社会において欠かせない存在であったことがわかる。

3.ルマ・ジュパン(日本人の家)
 インドネシア語でルマ(rumah)は家を意味するので、ルマ・ジュパンを日本語に直訳すると日本の家となる。インドネシア語で人を表すオラン(orang)という単語が抜けているが、日本人の住む家と理解される。

3.1.ルマ・ジュパン訪問
 筆者が北スマトラ州の州都メダンを拠点として2008年と2009年にそれぞれ約1か月のフィールドワークを実施していた際、福祉友の会メダン支部事務員に同行してもらい日系インドネシア人宅を訪ねていた、またはメダン支部に日系人が訪ねて来てくれていた。しかし、2010年4月~2011年3月のフィールドワークでは、モーターバイクを購入し筆者単独で日系人宅を往訪するのがほとんどとなった。以下、筆者がフィールドワークを開始して計5か月ほど経過した2010年6月2日の出来事を紹介する。フィールドワーク中に初めてルマ・ジュパンという言葉を耳にした日である。
 この日は日系インドネシア人三世男性イルワン(25)の居宅を訪問した。訪問前に「訪問する折に私の家が見つからないようであれば、ルマ・ジュパンはどこかと近所の人に尋ねて下さい」という内容のインドネシア語のメール(ショートメッセージサービス、SMS)が筆者の携帯電話に届いた。
 筆者はイルワンの住所付近に来ているはずなのだが同氏宅に辿り着けずにいた。辺り一体が白い塀で覆われた家々ばかりで、また白い塀に番地表示や表札のないものが多かった。加えて、同氏の仕事の都合上日が暮れてからの訪問であり、メダン市内とは言え筆者の下宿先からかなり距離が離れており、かつ初めて訪れた地域であったためどこか心細くもなってきた。そこで筆者は、通りを歩いていたその地域の住民らしきインドネシア人男性に「イルワンさんの家を訪問したいのですが。ルマ・ジュパンはどこか教えてくれますか」と尋ねてみると「ああ、ルマ・ジュパンですね」と言い、丁寧に場所を説明してくれた(26)。後でわかったことには、同氏は日系一世の時代から同じ場所に住んでいるため、辺りではルマ・ジュパンとして知られているのだ。

3.2.他者からの認知範囲
 筆者は上で紹介したエピソード以後しばらくの間、日系インドネシア人宅訪問時すぐにその場所がわからないときには、同じ通りに住む人々に「ルマ・ジュパン」という言葉を用いて道を尋ねるようにしていた。また、日系人に「あなたの家は近所の人たちからルマ・ジュパンと呼ばれていますか」と問いかけたこともあった。
 その結果、ルマ・ジュパンは、メダンの中心部のように人口密度の高い地域においては、周辺全戸の住人や同じ通りの住人から、日系人によっては隣の通りの住人からも認知されていることが明らかとなった。メダン郊外に住む日系人であれば、広い範囲の人々からジュパンであることを認知され、そう呼ばれている。加えて、日本人(日系一世)と華人系の出自を持つ日系人は華人系だけ、ないしは華人系の多く住む地域に家を構えているし、華人系コミュニティに生きているが、世代を経た今でも彼らの家はルマ・ジュパンとして知られている。
 他方、メダンの隣にあるバタン・クイスという町に、1960年代後半から日系人が一家族だけ住んでいる。日系一世ルディはこの町でドクトル・ジュパンとして町民に重宝がられていたという。現在、バタン・クイスには日系一世ルディの長男・日系二世ハルトノ夫婦とその孫(四世)が同じ場所に暮らしているのだが、日系一世の時代からルマ・ジュパンと呼ばれ続けている。他方で、日系二世ハルトノは同氏のあだ名にジュパンをつけた形で、○○ジュパンと近所の人たちから呼ばれていることは興味深い。
 日系一世ルディが存命の頃、バタン・クイスのどれだけの人々が同家族をジュパンであると認知していたのかを正確には把握できないが、その認知度はかなり広範囲に亘っていたと推測される。北スマトラ州の他地域キサランやトゥビン・ティンギ、さらにはアチェ州のロクスマウェなどにおいても同様のことが言えるだろう。

4.オラン・ジュパン
4.1.日系インドネシア人一世に対する呼称
 インドネシアにおいて、たとえば西スマトラ州をホームランドとするミナンカバウ人は、オラン・インドネシアであると同時にオラン・ミナンカバウであるというように、日系インドネシア人一世もオラン・インドネシアであると同時にオラン・ジュパンでもある。すなわち、同国においては各々が各々の帰属する民族意識を保持し、周囲からもその出自を認知されていると同時に、オラン・インドネシア(インドネシア人)という国民意識を持って生活している。
 繰り返しになってしまうが、我々が日系インドネシア人一世と称呼する人々は、現地の文脈ではオラン・ジュパンなのであった。過去形で表現したのは、日系一世全員がすでに亡くなっており、また日系二世以降の日系人は基本的にオラン・ジュパンと名乗っていないし、また非日系インドネシア人からそのように呼ばれてもいないからである。ただし、日系二世や三世は職場や学校などで文脈によってはオラン・ジュパンと範疇化され、そのように呼ばれることがあるし、また日系人が自らをオラン・ジュパンと主張することもある。
 日系二世となると非日系人からオラン・ジュパンではなく日系人と範疇化されることがほとんどである。日系二世や三世は周りから出自を訊ねられれば父親もしくは祖父がオラン・ジュパンであると説明するが、彼らは基本的には自らを日系人であると同定し、周囲に日系(keturunan Jepang)または日系人(orang keturunan Jepang)であると主張する。親しい間柄の相手に対して、ないしは仲間内では文脈によって我々の仲間・構成員やファミリーといった意味のwarga kamiやwarga kitaと表現することがある。

4.2.他者から見たオラン・ジュパン
 他方で、オラン・ジュパンは非日系インドネシア人の目にどのように映っていたのだろうか。ドクトル・ジュパンを含め、日系一世らの器用さ、律儀さ、生真面目さは、職種を問わず周りのインドネシア人から一目置かれる存在であったようだ。人々と礼儀正しく接し、時間を守り、丁寧に仕事に取り組むといった日本人らしさがインドネシア人に評価されたのだと言えよう。
 たとえば、日系三世アミンの証言によると、祖父はその真っ直ぐな性格から、また敬虔なイスラーム教徒として地域住民のお手本のような存在であって、近所の人たちは何かあると祖父の下に相談しに来ていた。また祖父の営んでいた木材会社および精米工場はその技術の高さから、祖父の仕事に対する情熱から同業者の信頼を得ていた(27)。他方で、日系二世女性アイシャによると、彼女の父親はインドネシア国軍の一員として独立達成に尽力した日本人ということで、近所の人々に尊敬の念を抱かれていたという(28)。
 このように、オラン・ジュパンの他者からの評価は日系一世がインドネシア独立に尽力したという事実に加えて、日系一世の人柄でその評価がなされていた。また、インドネシア政府より授与された英雄勲章を持っているだけで、地方に行けば行くほどに尊敬の的となる(29)といった面も見られた。

おわりに
 本稿では、日系インドネシア人一世が多民族社会メダンにおいて自分たち以外のインドネシア人から、オラン・ジュパンと呼ばれ、範疇化されていただけでなく、ドクトル・ジュパンやルマ・ジュパンと呼ばれていたことを明らかにした。本稿で述べていないが、商店を営んでいた場合はトコ・ジュパン(toko Jepang)、自動車やモーターバイクなどの修理工を生業としていた場合はベンケル・ジュパン(bengkel Jepang)とも呼ばれていた。
 日系インドネシア人一世自らの意志ではなく多文化的・多民族的状況が、一つの民族集団とまでは言えないものの、オラン・ジュパンという範疇をつくり出した。加えて、日系インドネシア人一世は仲間内で過ごすときは、互いをオラン・ジュパンと呼び合うことはなかった。オラン・ジュパンは非日系人との交流があって、はじめてその姿を現す個人ないしは集団であると言える。
 多民族的状況下で日本人である日系一世が、人数が少なく珍しがられた彼らが現地社会で周りからジュパンと範疇化されていたことは至極当然のことである。しかし他者からの日系一世に対するジュパンという範疇化は、日系インドネシア人の日系人意識を解明するのに大いに役立つ。なぜなら、そのようなことをきっかけとして、彼らはオラン・ジュパンであることを意識しはじめ、オラン・ジュパンとして振る舞い、他民族と交流していく中で日本人であることの意識がさらに強化されたと言えるからである。引き続き、日系インドネシア人とはどのような人々であるのかという問いを究明していきたい。

注釈
(1) 2010年12月、ある日系インドネシア人一世がスマトラ島メダンの病院で亡くなった。ジャワ島では2014年8月に最後の一人となる小野盛が逝去したため、現在インドネシアに日系一世は存在しない。
(2) 日系インドネシア人を大別すると、残留日本兵をルーツとする日系人と、主に沖縄出身の漁民をルーツとする日系人とに分けられる。後者は、日系ミナハサ族とも呼ばれ、スラウェシ島北スラウェシ州マナドおよびその周辺に集住している。本稿で扱うのは前者である。
(3) インドネシア語でオラン(orang)は人、ジュパン(Jepang)は日本であるので、オラン・ジュパンは日本人となる。
(4) 本稿では、残留日本兵、日系インドネシア人一世(日系一世)、オラン・ジュパンという呼称を脈絡に応じて使い分ける。
(5) 伊藤雅俊『日系インドネシア人のエスニシティ形成と日本出稼ぎ―日系アイデンティティの継承と変容の考察―』日本大学大学院国際関係研究科 平成23年度学位論文、2012年。
(6) 前掲論文。
(7) 前山隆『エスニシティとブラジル日系人』御茶の水書房、1996年、206頁。
(8) 前掲書、207頁。
(9) 前山隆『異文化接触とアイデンティティ ブラジル社会と日系人』御茶の水書房、2001年、76頁。
(10) 福祉友の会(インドネシア語ではYayasan Warga Persahabatan、略称YWP )は、日系インドネシア人一世の親睦および相互扶助を目的として1979年に設立された、インドネシア全国規模の日系人組織である。本部はジャカルタ、支部はスラバヤとメダンに設置された。日系人は同組織をYayasanないしYWPと呼ぶ。
(11) たとえば、秋野晃司「日系インドネシア人の軌跡 Life Historyに関する調査報告」『社会科学ジャーナル』第26号第2巻、1988年、101-12頁、伊藤雅俊「交友関係にみる日系インドネシア人社会の形成過程 日系アイデンティティに関する一考察」『移民研究年報』第21号、2013年、107-18頁、後藤乾一「元日本兵クンプル乙戸(1918~2000年)と戦後インドネシア」『アジア太平洋討究』早稲田大アジア太平洋研究センター、第4号、2002年、49-63頁、林英一『残留日本兵の真実 インドネシア独立戦争を戦った男たちの記録』作品社、2007年、同上『東部ジャワの日本人部隊 インドネシア残留兵を率いた三人の男』作品社、2009年、同上『皇軍兵士とインドネシア独立戦争 ある残留日本人の生涯』吉川弘文館、2011年、プルナマワティ「インドネシアにおける残留元日本兵の戦後史 残留日本人団体「福祉友の会」の分析を中心として」『地域政策科学研究』第7号、2010年、197-218頁などが挙げられる。
(12) 伊藤雅俊「交友関係にみる日系インドネシア人社会の形成過程 日系アイデンティティに関する一考察」『移民研究年報』第21号、2013年、107-18頁。
(13) 伊藤雅俊「日系インドネシア人一世の北スマトラ州メダンへの集住過程」『国際文化表現研究』第12号、2016年、425-36頁。
(14) 吉田正紀『異文化結婚を生きる 日本とインドネシア/文化の接触・変容・再創造』新泉社、2010年、184-221頁。
(15) 伊藤、2013年、108頁。
(16) Pelly, Usman. Urbanisasi dan Adaptasi: Peranan Misi Budaya Minankabau dan Mandailing di Perkotaan. Unimed Press, 2013. pp. 70.
(17) Pelly, Usman. Urban Migration and Adaptation in Indonesia: A Case Study of Minangkabau and Mandailing Batak Migrants in Medan, North Sumatra, Ph. D. dissertation, University of Illinois at Urabama-Champaign, 1983, University Microfilms International, Ann Arbor, U.S.A, 1984. pp. 103.
(18) Suryadinata, Leo, ed. Indonesian’s Population: Ethnicity and Religion in a Changing Political Landscape, Institute of Southeast Asian Studies, 2003. pp. 15.
(19) 筆者のメダンを拠点としたフィールドワークの成果に加えて、厚生省『スマトラ地区未帰還者等名簿(附 スマトラ地区残留邦人連名簿)』厚生省、1958年、長洋弘『インドネシア残留元日本兵を訪ねて』社会評論社、2007年など。
(20) 本田忠尚『パランと爆薬』西田書店、1990年、250頁。
(21) 萩谷朴『ボクの大東亜戦争 心暖かなスマトラの人達 一輜重兵の思い出』河出書房新社、1992年、153-56頁。
(22) 前掲書155頁。
(23) 長谷川豊記『スマトラ無宿 虎憲兵潜行記』叢文社、1982年、127-28頁。
(24) 厚生省『スマトラ地区未帰還者等名簿(附 スマトラ地区残留邦人連名簿)』からは、1951年から1958年の間にアチェ州ムラボー、北スマトラ州シボルガ、パダン・シディンプアンでもドクトル・ジュパンをしていた日系一世が確認できる。
(25) 本稿に登場する日系インドネシア人は、プライバシー保護の観点から全員を仮名表記とする。
(26) 日系インドネシア人三世男性イルワン宅に向かう途中の出来事、2010年6月2日、メダンにて。
(27) 日系インドネシア人三世男性アミン宅で実施したインタビュー調査より、2011年9月4日、メダンにて。
(28) 日系インドネシア人二世アイシャ女性宅で実施したインタビュー調査より、2011年8月9日メダンにて。
(29) 長88頁。

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