金山泰志(同朋大学 文学部 人文学科 専任講師)
はじめに
本稿は、昭和戦中期における日本の南方教育について、その教授の内実を検討するものである。具体的には、「昭和戦中期の小学校(国民学校初等科)で、南方地域がどのように教えられていたのか」を明らかにする。
「日本人の「南方」経験」といった場合、その経験には直接経験と間接経験があったことが考えられる。前者は、実際に南方地域に赴き、何らかの形で人や物に触れ合ったという経験のことであり、後者は、前者の経験が、各種メディア(ここでは「人と人のあいだのコミュニケーションを媒介する作用や実体〔1〕」という広義の意味でメディアを捉えたい)によって、その他の(南方の直接経験がない)日本人に伝達されるといった間接的な経験が想定される。そして、前者にせよ後者にせよ、彼らの南方経験が、例えば昭和戦中期の「大東亜共栄圏」のような地域秩序構想の形成に影響を与えたことが考えられるのである。
本稿では、日本人の南方に関する間接経験について、その実態を当時の小学校教育から明らかにする。小学校教育もまた当時を代表するメディアの一つである。小学校教育は近代日本人の義務であり、さらに戦前においては小学校卒業後の進学率が低かったため(1940年で約25%〔2〕)、小学校教育の影響力は特に大きかった(後述するように、教科書が国定制度であったことも重要である)。南方地域に関しても、小学校で教わった内容(南方地域に関する情報)が、多くの日本人の唯一の南方経験(間接経験)であったとも考えられる。
具体的な検討方法として、本稿では、昭和戦中期の小学校用教科書を使用する。小学校用教科書は、1904年度から国定教科書制度が採用されており、南方に関する教材は地理・歴史・国語・修身で確認できる。本稿では昭和戦中期の教科書として、『初等科地理』(国定6期、1944年)、『初等科国史』(国定6期、1943年)、『初等科国語』(国定5期、1941~43年)、『初等科修身』(国定5期、1941年)を使用する〔3〕。
一方で、教科書のみの検討では、教科書の内容分析を行ったことにしかならない。本稿では、その教科書の内容が実際にどのように教えられていたのかという、教授の実態にまで検討を深める〔4〕。そのための史料として、文部省著作の教師用書や、民間から刊行されていた教師向け指導書・教授書・参考書 (以下、指導書と表現を統一)を、本稿では使用することとする。
以上のような問題意識のもと、「南方」に関する教育の実態を実証的に検討した専論は管見の限りない〔5〕。以下、昭和戦中期の小学校(国民学校初等科)の授業(地理・歴史・国語・修身)で、「南方」がどのように教えられていたのか、その教授の実態を丁寧に見ていく。
1 地理科における南方教育
『初等科地理』の上巻(初等科5年の地理教科書)では、まず「一 日本の地図」という教材において、「日本の地図をひらいて見ませう」と、日本の地理の概略(全体像)から教授が始まっている。その後、「そこで次に、日本を中心とした広い大東亜の地図を、ひらいて見ませう」と、視点が「大東亜」に移る。地理教科書に限らず、「大東亜」という単語が当時の教科書には頻出することとなるが、これは当時の国際情勢を反映したこの時代の教科書ならではの特色である。「南方」に関しては、次のように叙述されている。
本州の中央から南の方へ、伊豆七島・小笠原群島が連なつてゐて、遠くわが南洋群島に続いてゐます。この群島は、無数の小島が砂をまきちらしたやうに、西太平洋上にちらばつてゐます。ごく小さな島々ではありますが、広い海面にちらばつてゐるので、わが国のまもりから見て非常に大切なところであります。
わが南洋群島の西から南にかけて、赤道を中心に、ルソン・ミンダナオ・ボルネオ・スマトラ・ジャワ・セレベス・パプアなどをはじめ、大小さまざまの島の一群があります。みんな熱帯の島で、ボルネオやパプアは、日本全体よりも大きな島です。大東亜戦争が起つて、これらの熱帯の島々の大部分は、インド支那半島のマライやビルマなどとともに、わが皇軍の占領するところとなりました。ビルマに続いてインドがあり、皇軍の活躍は西へのびてインド洋に広がり、南へくだつて濠洲に及んでゐます
当時刊行されていた『国民学校国民科地理精義』という指導書を見てみると、「東亜とは主として、満洲・支那・南洋・シベリヤ等を含む地域」であり、「東南アジヤと言ふのは、印度支那半島とマレー諸島の総称であるが、此の地域は現在我が南進政策の標点であつて、外国地理教材にありては、東亜(満支)の地理教材に次いで重視されねばならぬ教材である」と、「東南アジア教材」の主眼点が解説されている〔6〕。「南方」地域としては、とりわけ当時の日本の南進政策と関わりの深い場所が重要視され、教授されていたことが指摘できる。
『初等科地理』の上巻では、日本地理の一環として、当時日本の植民地であった「台湾」と、第一次世界大戦以降に日本の委任統治領となっていた「南洋群島」の教材が見える(十二 台湾と南洋群島)。地理教材では、それぞれの地域に関する区域と位置・政治区分・気候・地勢・我が国の交通関係・産業等の概要が説明されている。南洋群島に関しては、次のように解説されている(教科書には写真や地図も添付されている)。
南洋群島は、日本列島の南、赤道に近い熱帯の大海原に広くちらぶってゐる島々で、わが太平洋方面の国防上の基地として、非常に大切であります。みんな小さな島ばかりですから、数は多くても、その全体の面積は東京都ぐらゐなものです。
わが南洋群島は、カロリン・マーシャル・マリヤナの諸群島から成り立つてゐるたくさんの島々です。この群島は、全部熱帯にありますから、いはゆる常夏の気候で、四季の区別がありません。気温は年中高いのですが、いつも海風が吹く上に雨が多いので、わりあひしのぎやすいのがいつぱんです。土地が狭く、かつ平地が少いので、もともと産業は発達してゐませんでしたが、わが国が統治するやうになつてから、いろいろな産業が興つて来ました。中でもさたうきびの栽培は、近年ますます盛んで、製糖業はこの群島第一の産業であります。
『初等科地理』の下巻(初等科6年の地理教科書)になると、上巻で簡単に概説がなされた「大東亜」の各地域について、より詳しい解説が加えられている。下巻の「目録」を見てみると、「一 大東亜」の総論から始まり、「二 昭南島とマライ半島〔7〕」「三 東インドの島々〔8〕」「四 フィリピンの島々〔9〕」「八 インド支那〔10〕」「九 インドとインド洋」「十二 太平洋とその島々」 といった教材が続いており、教科書教材の半数近くが日本の「南方」に関する地理教材となっている。
当該教科書においては、西欧の地理教材がなく、また、シンガポール(昭南島)やマレー半島、東インドの島々(ボルネオ・スマトラ・ジャワ・セレベス・パプアなど)、フィリピンといった当時日本軍が占領していた地域が、満洲や中国の地理教材(「五 満洲」「六 蒙彊」「七 支那」)よりも先に教材として紹介されている点が特徴である。実際の教科書記述を見ても、「大東亜戦争以来は、昭南島を中心として、フィリピンや東インドの島々が、力強く大東亜の建設に加つて来ました」(一 大東亜)とあるように、太平洋戦争の進展状況が教科書に反映されていることがわかる。
これらの教材の「教授事項」として、前述の指導書では、「印度支那半島にありては、其の区域と位置並に政治区分・気候・地勢の概要を明かにして、次いで主要物産たる米の分布状況と積出港、ハイフォン附近の石炭、マレー半島の錫、鉄鉱及びゴムの木の栽培状況等に就て理解せしめ、又英国の極東に於ける軍事上の要地であり、同時に世界交通上の要地であるシンガポールに就いて明にすること〔11〕」が重要であると指摘している。資源の獲得が日本の南進政策の要であったことからも明らかなように、地理教科書において、取り上げている「南方」諸地域の「資源」に関する教授が重要であることは言をまたない。また、「南方」の気候に関する指導に関しても、「元来本地域は赤道直下に当るが故に、動もすると邦人の容易に生活し得ない自然環境の如く思惟され易い傾向が多分にあつた。併し之は(中略)全く謬念であるから、斯うした誤つた考へは、国民科地理教育に於て是正し、将来益々此の方面への発展を企図する念慮を培養すべきである〔12〕」と注意がうながされている。
また、これらの「南方」地理教材の共通項として注目すべきは、日本との親和性が強調されている点である。例えば、フィリピンや東インドの島々に関して、「よく注意して見ると、日本に似て、弓なりになつた山脈の続きが見られることや、火山帯がひとつながりになつてゐることは、われわれに何となく親しみをさへ感じさせます」(三 東インドの島々)と、その類似性が強調されている。
特に顕著なのが、戦争前からこれらの南方諸地域と関係があったという点の強調である。例えば、マレー半島に関する「昔、日本人がこの半島へ盛んに来たことがあつて、八幡船を思ひ出させるパハン州の名は、そのころのことを物語るものといはれてゐます」(二 昭南島とマライ半島)といった記述の他にも、「日本人は、以前からこの地方で、熱帯の気候や病気やその他の困難に堪へながら、いろいろの方面に活躍してゐました」(三 東インドの島々)、「ミンダナオ島のダバオ附近には、四十年前ぐらゐ前から日本人が移住して(中略)マニラ麻を有名にしたのも、全く日本人の努力のたまものです」(四 フィリピンの島々)、「日本人は、昔アンナンやカンボジヤの各地に渡航して、活躍したことがありました」(八 インド支那)、「インド支那の中部地方は、すなはちタイ国で、もとシャムといはれ、三百二十年ばかり前、シャム王をたすけて日本の名をあげた山田長政などによつて、わが国では昔から親しまれてゐました」(八 インド支那)などの叙述が確認できる。
これらの、日本と「南方」との関係性については、次から見ていく地理以外の教科書でも繰り返し強調されることになる。
2 歴史科における南方教育
『初等科国史』では、主に日本の歴史を学ぶことになるが(初等科5・6年)、当該期の教科書の特徴でもあるように、日本と「南方」の関わりについて意識された叙述が歴史教科書においても数多く確認できる。
『初等科国史』上巻で、最も早くその意識の反映が読み取れるのが、「尊い御身を以て、支那ばかりか、遠くマライ方面までおでかけになつたお方があります。それは、桓武天皇の御孫真如親王〔高岳親王〕で・・・」と紹介される箇所である(第四 京都と地方 一 平安京)。文部省発行の教師用指導書には、「南進の御先駆であらせられる」と紹介され、「大東亜共栄圏の建設に対する児童の関心を高めさせようとしたのである〔13〕」と「教材の趣旨」を説明している。
日本の歴史の舞台に南洋が具体的に加わってくるのが、室町時代の「八幡船」に関する教授時である。教科書では「船には、八幡大菩薩と書いた大のぼりを押し立て、東亜の海を、ところせましと乗りまはしました。朝鮮・支那はもちろんのこと、八重の潮路を乗り切つて、はるか南洋までも進出しました」「南方へ出向いた九州や沖縄の商人と、土地の住民との取引きは、きはめておだやかに行はれました。南方の人々は、ゆたかな産物にめぐまれて、楽しくくらしてゐました。」「ところが、この平和な南洋へ、やがてヨーロッパ人が押し寄せて来るやうになつたのです」「ポルトガル人は、さらに東へ手をのばして、南支那にも根城を作り、インドや支那と盛んに貿易を行ひ、イスパニア人も、やがてフィリピン群島を占領し、南洋の島々と取引きを始めました」(第七 八重の潮路 二 八幡船と南蛮船)と記載されている。
当時の指導書では、「戦国乱離の劫火が燃えひろがらうとする頃ほひ、東亜の海には、海国日本の面目を示す八幡船の活躍が見られ、国民の海外発展心は漸次旺盛の度を加へて、南方雄飛の緒をさへ開く有様であつた」「視野を狭く日支の関係に限ることなく、眼を広く東亜に放つて、邦人の南方発展に関する記述となつて展開される」と「教材の趣旨」が説明され、「八幡船の南方進出を取扱ふには、特に南方との親和の情を喚起するやう留意するとともに、その平和的進出が、ヨーロッパ人の南洋来航に先んじるものであつたことを明らかにすることを忘れてはならない」と、指導上留意すべき点が解説されている〔14〕。地理教科書でも強調されていた「南方との親和」を、歴史的に裏付けすることが目的とされているのである。
この「南方」との関係史は、その後の歴史を取り扱っている『初等科国史』下巻においても、意識的に取り上げられている。
例えば、豊臣秀吉の「朝鮮出兵」に関しては、「秀吉は、海内平定の軍を進めながら、早くも、その次のことを考へてゐました。それは、朝鮮・支那はもちろん、フィリピンやインドまでも従へて、日本を中心とする大東亜を建設しようといふ、大きな望みでありました」「また天正十九年には、フィリピンやインドに書を送つて、入貢をすすめました」(第八 御代のしづめ 三 扇面の地図)と、歴史教科書では同時代の「大東亜共栄圏」を意識した叙述が行われている。
江戸時代に入ると、東亜及び南洋に侵略を始めるヨーロッパ諸国の脅威が「イギリス人はインドに、オランダ人は東インド諸島に目をつけ、関原の戦から二三年の間に、それぞれ東インド会社を立てて、東亜の侵略を始めたのです。」「オランダ人は、一方東インド諸島で、ポルトガルの勢力を押しのけ、元和五年には、ジャワのバタビヤ(今のジャカルタ)に総督を置くほどの勢でした」(第九 江戸と長崎 二 日本町)と語られ、そこに勇ましく乗り込む日本人を描き出している。教科書では、南方に移住する日本人が増え、これらの人々が今の東部インド支那・タイ国・フィリピンなどの各地に、日本町を立てて、活動の根城にしたことを紹介している。当時活躍した人物とエピソードとしては、「山田長政が、日本町の人々を率ゐて、シャムの内乱をしづめ、その功によつて重く用ひられた話」が「いちばん有名」であると紹介したあと、加藤清正が、大船を造つて安南との貿易を計画した話や、支倉常長が伊達政宗の命を受け、太平・大西の両洋を横ぎつてローマに使ひした話、更に寛永年間には播磨の人天竺徳兵衛が、15歳の若さでシャムに渡つた話や、九州の大名松倉重政がフィリピン征伐を計画した話があるという点にまで言及が行われている 。
しかし、せっかく築きあげた南方発展の根城も、「鎖国」によって次から次へと「ヨーロッパ人にくづされて」しまい(第九 江戸と長崎 三 鎖国)、近代に入ると、アメリカなどの「東亜に対する欲望」が急に高まってきたことがふれられる(第十四 世界のうごき 一 明治から大正へ)。その後は、第一次世界大戦後のベルサイユ条約で「赤道以北の旧ドイツ領南洋群島の統治を委任され」たことや、アメリカが「〔第一次〕大戦中、わが海軍が南洋へ進出すること」を嫌がったことが紹介されている(第十四 世界のうごき 二 太平洋の波風)。
昭和に入っても、「海外の諸国は、世界平和を望むわが国の誠意を無視して、勝手なふるまひを続け」るため(第十五 昭和の大御代 一 満州事変)、昭和16年に「しのびにしのんで来たわが国」が「決然とたちあがり」、「陸海ともどもに、ハワイ・マライ・フィリピンをめざして、一せいに進攻を開始しました」と「大東亜戦争」の教授が行われ、「昭和十七年を迎へて、皇軍は、まづマニラを抜き、また破竹の進撃は、マライ半島の密林をしのいで、早くも二月十五日、英国の本陣、難攻不落をほこるシンガポールを攻略しました。その後、月を重ねて、蘭印を屈服させ、ビルマを平定し、コレヒドール島の攻略がなり、戦果はますます拡大されました」(第十五 昭和の大御代 二 大東亜戦争)と現在の戦況に至る。
以上の「南方」に関する叙述からも明らかなように、日本の歴史を扱う小学校の歴史科においても、古代から現在にかけて、日本と「南方」に関する歴史(情報)が意識的に散りばめられていたことがわかる。
3 修身科における南方教育
修身は、戦前の小学校の必修科目であり、国民道徳の実践を目的とするため、「南方」とは一見関係のない教科のように考えられるが、修身教科書を丁寧に読んでいくと、「南方」関連の教材(主に人物)が少なからず見つかる。これもまた、『初等科修身』が太平洋戦争中に刊行された教科書であったことが一因である。
「南方」関連の人物として『初等科修身』に最初に登場するのが、前述の歴史教科書でも「いちばん有名」と評されていた「山田長政」である。
今から三百二十年ばかり前に、山田長政は、シャムの国へ行きました。シャムといふのは、今のタイ国のことです。そのころ、日本人は、船に乗つて、さかんに南方の島々国国を往来し、たくさんの日本人が移り住んで、いたるところに日本町といふものができました(中略)
シャムの国王は、ソンタムといつて、たいそう名君でありました。長政は、日本人の義勇軍をつくり、その隊長になつて、この国のために、たびたびてがらを立てました(中略)
外国へ行つた日本人で、長政ほど高い地位にのぼり、日本人のために気をはいた人は、ほかにないといつてもよいでせう(『初等科修身』二「十一 山田長政」)
この教材に関しても、当時の指導書を見れば、「教材の趣旨」が明確に示されている。『初等科修身』の教師用指導書では、山田長政は「南方発展の先駆者」であるとされ、「海外雄飛の精神を鼓吹し、雄大な思想と雄渾な気魄とを以てして、大東亜共栄圏の建設に邁進するの心構を養はしめようとするものである」と説明されている〔15〕。また、「本課に於て指導すべき主要事項」として「当時日本人はさかんに船によつて南方の島々に往来したこと〔16〕」があげられており、ただ単に山田長政を顕彰することを目的とした教材でないことは明らかである。
また、「取扱の要点」として「特に大東亜に関する略図を示して、タイ国の概要、最近に於けるわが国との交通関係及び渡航の航路の如きものについて、簡単に述べておく〔17〕」と具体的な指導例も示されており、タイに関する地理的教授が修身科でも行われていたことが読み取れる。国民道徳の実践を目的とした修身科であっても、「南方」に関する教育が実際には行われたことが考えられるのである。
その他、「南方発展の心構に強く資せしめようとする」教材としては、『初等科修身』4巻の「十三 ダバオ開拓の父」がある。本教材では、「大東亜建設の先駆者」として「太田恭三郎」が取り上げられ、「マニラに在つて不足ない生活を営んでゐた恭三郎が、ベンゲツト道路の開通工事を機縁として、南方進出のわが同胞と苦難をともにせんとはかつたこと」「恭三郎が日本人のためにマニラ麻の栽培を始めたこと」が具体的に教授される〔18〕。本教材も、前述の「山田長政」の教材と同様に、指導書において「既に初等科地理下に於いて児童が習得した知識を手がかりとして、フィリピンに関する話合ひをさせる」「また大東亜戦争の戦果に関して解説し、この地方が昔からわが国民の血と汗とで開発されたことのある二三の例を用ひるもよい」と〔19〕、実際の指導例まで示されている。修身科の枠を超えた、他教科との相互補完的な教授方針が読み取れる。
また、当該指導書では、外国との付き合いに関する教材(前述の「山田長政」「ダバオ開拓の父」)に共通する「特に注意すべき礼法」として「外国人に接するには、常に日本国民たるの矜持を保ち、徒に尊大に陥つたり、卑下したりしてはならないこと」と注意がうながされている〔20〕。このような教授上の注意が見える一方、当該期の「南方」における日本人の態度にその反映が見られたか否かは、教育の理想と実態の問題として改めて考える必要があるだろう。
修身科で取り上げられる偉人は、昔の日本人に限らない。当該期の修身教科書であれば、太平洋戦争で活躍した軍人が「軍神」として顕彰されている。「日本一の戦闘機部隊長とうたはれた加藤建夫少将」を取り上げた「軍神のおもかげ」(『初等科修身』三)という教材があるが、南方地域で活動していた人物であるため「かずかずの武功にかざられながら、つひに、はてしない南方の大空に花と散りました」と紹介され、「これに先立つ昭和十七年の五月四日、わが軍がビルマ西岸のアキヤブを占領すると、インドをおびやかされた敵国の飛行機は、わが攻撃をふうじようとして、幾たびとなくおそつて来ました」というように、具体的な「南方」の地域名称が登場することとなる〔21〕。
また、修身科では「二十 大陸と私たち」(『初等科修身』二)や「二十 新しい世界」(『初等科修身』四)といった現時の戦争の状況を踏まえた総括的な修身教材が各巻末の締めとして登場する。
今、日本は、大陸から南方へかけて東亜を新しく立てなほすために、勇ましく戦ひもし、またあたたかくみちびきもしてゐますが、一日も早く、いつしよに楽しく働くことができる日の来るのを、願はずにはゐられません。私たちのおとうさんや、にいさんは、大陸から南方へかけて出かけ、命がけの働きをしてゐます(二十 大陸と私たち)
タイ国も、東部インド支那も、日本と親密な関係を結び、相たづさへて、大東亜建設のために、協力してゐます(中略)わが戦果にかがやく南方の諸地方は、新生の光にあふれ、マライや昭南島、ビルマやフィリピン、東インド諸島に響く建設の音が、耳もと近く聞えて来ます。大東亜十億の力強い進軍が始つたのであります(二十 新しい世界)
各指導書では、「支那大陸その他南方の国々と協力して、新たな世界の建設に邁進すべきゆゑんを弁へしめ、以てそれに処する覚悟を固めしめようとするのである」「特に大東亜の建設に処するの覚悟を固めしめるところに、本教材の趣旨がある」と説明さている〔22〕。修身科においても、「大東亜」という文脈の中で、「南方」が具体的な地域名称とともに教授されていたことがわかるだろう。
4 国語科における南方教育
戦前の国語教科書は、他教科との相互補完的な教材を集めた総合読本の形式をとっていたため、教材の種類として「地理的教材」「歴史的教材」「修身的教材」が存在する。前述までに見てきた通り、地理科・歴史科・修身科の全ての教科で「南方」関連の教材があったように、国語科においても同様の教材が確認できる。
『初等科国語』の2 巻では、まさにそのものである「八 南洋」という教材が存在する。本教材は、子ども常会の日に幻燈会があり、登場人物である「勇さん」のお父さんが南洋の写真をうつし、今次の太平洋戦争における日本の陸海軍の戦闘地、南洋の景色、様子を説明した教材である。指導書を見ると、「我が陸海軍の奮戦により南洋は大東亜共栄圏の一環として強く勇ましく建設の大道に歩を進めつゝある様を知らしめようとするものである」「本教材では、更に進展して、南洋の天地にまで児童を導き、大東亜共栄圏に対する関心と、まだ見ない南洋の新天地を憧憬するの念を養ひ」と〔23〕、「教材の要旨」が説明されている。
本教材は、国語の教材として、地理教科書のように、ただ南洋に関する地理情報を羅列しているのではなく、生活的な幻燈会によって南洋を親しませるように工夫がこらされている。指導書では、「次から次へ出て来る南洋の風景を児童に見させ、親しく児童に呼びかける説明のことばと、児童が思はず画面に引きこまれて発することばとの組合はせによつて、児童みづからが、南洋への親愛感を自然に高めて行くやうに意図されたのである〔24〕」と説明されている。
本教材の教授事項としては、「南洋に於ける物資の種類やその豊富なことを本文に即して児童に知らせる」「スマトラを始め、南洋の各地から産出する石油に関心を持たせる」ことが必要であると指摘され、それに加え「児童の日常使用する消ゴム・ゴムまり等は皇軍奮戦の地南洋からはるばる渡つて来ることに思ひを致させ、感謝の念を以つて使用せしめる様取扱ひたい」「日本と南洋との間に、切つても切れないつながりのあることを感得させる〔25〕」といったことも教授すべき事柄としてあげられている〔26〕。南洋の豊富な資源の重要性はしっかり児童に教授しなければならないが、即物的な話に終始しないように気を付けられていることがわかる(他教科でも同様)。
国語科で多く見られる「南方」関連の教材も、「大東亜戦争に取材」した教材である。『初等科国語』5 巻の「四 戦地の父から」という教材は、南方に出征している父から銃後の留守宅を護る子どもに宛てた手紙の文、という形式をとった教材である。「スコールといつて、こんな大雨が毎日きまつたやうに降る」「おとうさんたちは、赤むらさき色のマンゴスチンを、真二つに割つてたべる」「住民たちも、心から日本軍になついて、大東亜の建設に協力してくれてゐる。日本語が習ひたいといつて、おとうさんたちのところへ、毎日何人となくやつて来る」といったように、「南方の風物〔スコールやマンゴスチン〕」や「南方住民の心」の一端に触れさせ、「将来大東亜の天地に雄飛すべき皇国民としての自覚に培はうとする〔27〕」ことを目的としている。指導書では、さらに一歩進んで「子どもたちに、大東亜の将来の指導者としての自覚を呼び醒」す〔28〕、とまで言及されており、「南方」地域における指導者意識というものも読み取ることができる。
『初等科国語』8巻の「三 ダバオへ」は、前述の修身教科書教材「十三 ダバオ開拓の父」との関連性が読み取れる。なぜ、ダバオを攻撃するのか。児童は修身科で、フィリピンのダバオには、太田恭三郎の開発以来、日本人が在住してマニラ麻の栽培などに従事する者が多かったことを学んでいる。そこへ突如として起こったのが「大東亜戦争」であり、戦争が始まってもダバオに留まる日本人が多く、戦争開始とともにフィリピン官憲によって監禁されたが、日本軍の活躍によって同胞を救い出すことができた、その時の感激的な場面を描いたのが本教材であると、指導書では説明されている。本教材の「取扱の要点」として、「読みに即してダバオの位置を明らかにし、大東亜戦争にわが軍が敵国に監禁されてゐた邦人を救ひ出したことが書いてあることをわからせる」とあり、ダバオの地理的・歴史的な教授も同時に行われていたことがわかる〔29〕。
『初等科国語』の「南方」関連の教材として、特筆すべきは7巻と8巻の巻末にある「附録」教材の存在である。「附録」は、時間に余裕が生じた場合に、随時適当に取り扱う教材であり、7巻の附録は主に南洋に関するものが集められ、「附録一 ジャワ風景」「附録二 ビスマルク諸島」「附録三 セレベスのゐなか」「附録四 サラワクの印象」の4つが収録されている〔30〕。指導書では「本文の教材と相俟つて読書に対する興味を喚起し、読解力を養ふとともに、大東亜建設の精神の把握と、皇国の使命の自覚に培はうとするものである」「主として南洋の風土や生活等に親しませるやうにしたものである」と〔31〕、教材の趣旨と目的が説明されている。
例えば、附録一の「ジャワ風景」では、「ジャワは、果物の島。果物の女王と呼ばれるマンゴスチンがある」「ジャワ人たちは、男でも女でも、サロンを腰に巻いてゐる。いはゆるジャワ更紗で、赤や青や緑などで、花鳥を染め出したはなやかなものが、いつぱんに用ひられてゐる」「百年ばかり前、ジャワが、オランダと戦つたことがある。その時、ジャワの英雄ジボ・ヌガラが現れて、五年間も守り続けた」と、ジャワの風景を紀行文の形で描きだしており、児童にジャワの風物・習慣・歴史等の一端に触れさせ、ジャワに対する親しみを増やすことを意図している〔32〕。附録二の「ビスマルク諸島」では、ビスマルク諸島中のニューアイルランド島について、南洋特有の樹木や鳥や果物など、南洋らしい風景が見られることが紹介される。またこの島の住民がパプア族で、その性情を説明し、日本軍に心服している様子も描かれている〔33〕。附録三の「セレベスのゐなか」では、赤道を越えた南半球のセレベスの田舎に、「却つて日本に近い風物」が見られるとし、日本との親和性がここでもふれられている〔34〕。附録四の「サラワクの印象」は、ボルネオのサラワクの印象を記して教材としたもので、「クチンを中心とした風物」や「サラワク特有のオラウータン」、「雨季に於けるスコールや雷鳴のこと」、「住民のダイヤ族の習俗」や「マライ人の女たちの習俗」などが紹介され、児童にサラワクの人情・風俗などを印象づけようとしている〔35〕。
その他、「大東亜戦争に取材」した「南方」関連の教材としては、『初等科国語』五「五 スレンバンの少女〔36〕」や、『初等科国語』六「三 姿なき入場」「十八 敵前上陸」、『初等科国語』七「十八 ゆかしい心」、『初等科国語』八「十三 マライを進む」「十五 シンガポール陥落の夜」「十六 もののふの情」がある〔37〕。
おわりに
以上、本稿では、昭和戦中期の小学校教科書(地理・歴史・修身・国語)と、当時の教師用書や指導書を史料に、「南方」教授の実態を明らかにしてきた。
太平洋戦争の進展にともない、日本人の眼差しは否応なしに「南方」に向けられ、「南方」
を知ることが必須事項となっていた。それは近代日本人の義務でもあった小学校教育(国民学校)にも強く要請されることになり、当該期の全ての教科書は「大東亜の建設のため」を大テーマとして、「南方」関連の教材を数多く収録していた。
1944年に発行された『初等科地理』は、当時の戦況を反映した地理教科書であり、特に日本の占領地となっていた「南方」諸地域(シンガポールやマレー半島、東インドの島々、フィリピンなど)が特に重要視されていた。それらの地域の資源に関する情報が詳しく教授されていたことは当然であるが(日本の南進の一因であるため)、その一方で、「南方」諸地域との歴史的関係性や親和性などが強調されていた点も見逃せない。
歴史教科書では、室町時代頃から南洋が日本の歴史の舞台に登場し、日本人が早くから南方に進出していたことが強調されていた。修身や国語でも、「南方発展の先駆者」とされる山田長政や太田恭三郎といった人物を顕彰しつつ、それらの教材を通し「大東亜共栄圏の建設に邁進する心構」を養おうとしていた。
また、地理教科書だけでなく、他の教科でも、「大東亜戦争に取材した」教材が数多く見られ、それらは戦地が「南方」諸地域であることから、それらの教材からも「南方」教育が実際には行われていたといえる。修身でも国語でも、「南方」は歴史的にも地理的にも掘り下げて教授されていたことが、当時の指導書からうかがえた。
以上の点を踏まえると、当時の小学校教育においては、「南方」に関する地誌や民族、物産(資源)に関する基礎的知識が相当程度教授されていたことがわかる。一方で、太平洋戦争期より前の時期、「南方」への関心が戦時期より低かったと考えられる時代の教育状況(教授の実態)はどうであったのか38)。この点は、今後の大きな課題である。
註釈
〔1〕有山輝雄・竹山昭子編『メディア史を学ぶ人のために』世界思想社、2004年、7頁。
〔2〕文部省調査局『日本の成長と教育 教育の展開と発展』帝国地方行政学会、1962年、「第2 章2 節( 3 )中等教育の普及と女子教育の振興」。
〔3〕中村紀久二『教科書の社会史 明治維新から敗戦まで』岩波書店、1992年、『復刻国定教科書(国民学校期)解説』ほるぷ出版、1982年。本稿で使用する当時の教科書は、海後宗臣編『日本教科書大系』近代篇・全27巻(方丈堂出版、電子版)に収録のもの。
〔4〕教科書の内容や教育方法についての総論的研究は豊富な蓄積があるが、個別的かつ具体的な教授内容にまで踏み込んだ研究は皆無に近い。教科書の内容が教室の中でどのように受けとめられたのかという実態にまで検討を深めている研究として、古川隆久『建国神話の社会史』(中央公論新社、2020年)がある。
〔5〕「南方教育」というと、日本の対南方教育政策に関する研究は存在するが、本稿のような「南方に関する教育の実態」を明らかにした研究は見られない。
〔6〕『国民学校国民科地理精義』隅江信光、教育科学社、1941年、93頁・270頁。
〔7〕「昭南島は南方諸地方の中心になつてゐます。これほど重要なところですから、英国は、百二十年ばかり前からこの島をわがものにして、シンガポールといひならはし、軍港と商港の設備をととのへて、非常に大切にしてゐました。ところで大東亜戦争が始ると、わが軍は五十五日でマライを占領し、更に一週間で、難攻不落をほこつたシンガポールを落してしまひました。それ以来、島は昭南島、町は昭南市と改められ、マライ半島およびスマトラとともに、わが国によつて治められ、日一日と発展の一路をたどつてゐます」。
〔8〕「東インドの島々は、アジア南東部の海上、太平洋とインド洋との間にまたがつて、大きくひとかたまりになつてゐます。ボルネオ・スマトラ・ジャワ・セレベス・パプアなどの大きな島や、それに続く無数の島々から成つてゐて、よく注意して見ると、日本に似て、弓なりになつた山脈の続きが見られることや、火山帯がひとつながりになつてゐることは、われわれに何となく親しみをさへ感じさせます 」。
〔9〕「 たくさんの島々のうち、大きくて重要なのは、秀吉のころからわが国に知られてゐたルソン島と、マニラ麻で名高いミンダナオ島です」「米国は、アジヤ方面へ発展する基地として、四十年来フィリピンを支配して来ましたが、大東亜戦争が始つて半年のうちに、わが軍は全部の島々を占領してしまひました」。
〔10〕「インド支那は、アジヤの南へ突き出して、太平洋とインド洋とを分けてゐる大きな半島です」「インド支那は、東部地方・中部地方・西部地方の三つに分れ、東部には主にアンナン人やカンボジヤ人、中部はタイ人、西武にはビルマ人などが住んでゐます。これらの人人は、最近すべての方面で、日本を力と頼むやうになりました」。
〔11〕前掲『国民学校国民科地理精義』270頁。
〔12〕同上、271頁。
〔13〕『初等科国史 教師用 上』文部省、1943年、101頁。
〔14〕同上、238~244頁。
〔15〕『初等科修身 教師用第2 』文部省、1942年、108~109頁。
〔16〕同上、110頁。
〔17〕同上、111頁。
〔18〕『初等科修身 教師用第4 』文部省、1943年、163~165頁。
〔19〕同上、166・168頁。
〔20〕前掲『初等科修身 教師用第2 』202頁、同上、168頁。
〔21〕その他、『初等科修身』三「十八 飯沼飛行士」という教材でも、「飯沼正明は昭和十六年十二月、重要任務をおびて、羽田飛行場から南方の基地へ向かつて飛びました」「南方でめざましい活躍を始めたのでした」「北部マライ方面の作戦において、つひに壮烈な最期をとげた」と見える。
〔22〕前掲『初等科修身教師用第2 』194頁、前掲『初等科修身 教師用第4 』279頁。
〔23〕『 銃後教育軍人援護の各科取扱 : 新制国民学校教科書に拠る』愛知県内政部軍事課、1943年、83頁、『初等科国語 教師用第2 』文部省、1942年、76頁。
〔24〕前掲『初等科国語 教師用第2 』77頁。
〔25〕教科書の記述では、南洋の田植が日本と似ていることが触れられ、「日本と同じやうに、南洋でもお米を作ってゐるのは、おもしろいことではありませんか。これから、しっかりと手をつないで行く日本も南洋も、みんなお米のできる国なのです。」と結ばれている。
〔26〕前掲『銃後教育軍人援護の各科取扱』83頁、前掲『初等科国語 教師用第2 』79・82頁。
〔27〕『 初等科国語 教師用第5 』文部省、1943年、106頁。
〔28〕同上、112頁。
〔29〕『 初等科国語 教師用第8 』文部省、1943年、39・45頁。
〔30〕8 巻の附録は、主として東亜に関するものが集められており、「附録一 熱帯の海」「附録二 洋上哨戒飛行」が南方に関わる教材となる。
〔31〕『 初等科国語 教師用第7』文部省、1943年、330頁。
〔32〕同上、331頁。
〔33〕同上、336頁。
〔34〕同上、339頁。
〔35〕同上、342頁。
〔36〕「 皇軍がマライ半島を怒涛の如く南下してネグリスンビラン州のスレンバンに入城した時、十歳ぐらゐの少女が皇軍を迎へた。日本人を母に持つたこの少女が、その母から日本的な教育を受け、母との最期の袂別に際して、母が少女にいひ残して行つたことを、皇軍を迎へた時りつぱに実行したばかりか、皇軍の通訳としてけなげにも活躍協力したといふ報道員の手記によつたもの」(前掲『初等科国語 教師用第5 』118頁)。
〔37〕「 姿なき入城」「敵前上陸」「ゆかしい心」「シンガポール陥落の夜」「もののふの情」に関しては、「ラングーン」「ミンガラドン飛行場」「マライ半島」「コタバル」「フィリピン」「ナチブ山」「シンガポール」「ジャワのバリ島」といった名称が見える程度である。
〔38〕中川未来によると、すでに1870~80年代には、地理書を通じて南洋地域の基礎的知識は相当程度提供されていたという(中川未来『明治日本の国粋主義思想とアジア』吉川弘文館、2016年所収の「第二章 志賀重昂と稲垣満次郎の南洋経験」を参照)。