Reexamination Of Japanese “Southern” Experience

from The 1920s To 1950s

日本人の「南方」経験の再検討

-グローバル時代の新しい歴史像の構築に向けて-

【論文】1950年代のスマトラ島における日系インドネシア人一世の諸相  ―居住地と職種を中心に―(『報告・論文集』所収)

伊藤雅俊(日本大学 国際関係学部 国際教養学科 助教)

English ver.

はじめに
 日系インドネシア人〔1〕とは、太平洋戦争時にインドネシア各地に派兵され、終戦後も帰国せず、インドネシア独立戦争(1945/8-1949/12)に参加し、さらに同国独立後も帰国の途を選択しなかった残留日本兵(日系一世)およびその子孫(日系二世以降)を指す。
 1958年、当時の厚生省調製の『スマトラ地区未帰還者等名簿(附 スマトラ地区残留邦人連名簿)』の「附 スマトラ地区残留邦人連名簿」には、計155人の氏名や本籍地やインドネシアでの職種に加えて、旧日本軍時代の所属部隊名や階級身分などが記されている〔2〕)。本稿では1951年から1958年にかけて作成された「附 スマトラ地区残留邦人連名簿」を基本資料として、それに筆者がこれまでに実施してきたフィールドワークで得られた情報を付け加えながら、1950年代のスマトラ島における日系インドネシア人一世の様相を概観する。

1 日系インドネシア人の歴史的背景
1-1 インドネシア入国からインドネシア独立まで

 インドネシアは1942年3月から1945年8月までの3年半、日本の軍政下にあった。日系インドネシア人一世の大半は、1942-1943年に北スマトラ州やアチェ州に日本軍の一員として入国、あるいは隣国から現地除隊後に流れてきた日本人となる。ある者は日本から直接スマトラ島へ、ある者はタイ、マレーシア、シンガポールを経て、メダンのブラワンからインドネシアに入国した。また、ある者はジャワ島やアンボン島より北スマトラ州ブラワン、タンジュン・カラン、タンジュン・バライなどの港から、ないしはアチェ州各地の飛行場よりスマトラに入った〔3〕。一方、日系一世の中には、戦前に仕事の関係でスマトラ島にやって来ていて、太平洋戦争やインドネシア独立戦争に参加した一般邦人もいる。
 終戦から2日後の1945年8月17日、初代大統領スカルノが独立宣言文を読み上げ、旧宗主国オランダ軍・連合軍との4年半におよぶ独立戦争の火蓋が幕を開けた。この時点でインドネシア全土に陸海軍併せておよそ29万もの日本軍関係者が駐留していた〔4〕。そのうちの1,000人から2,000人がインドネシア独立戦争に参加したと言われているが、その正確な人数は不明である。
残留を決意した諸事由は、単純にインドネシアおよびインドネシア人への愛着が生じていた、現地女性との間に子どもを儲けていた、ないしは結婚していた、戦犯や連合軍の捕虜になることを恐れた、逃亡兵・非国民の汚名で肉親に迷惑をかけたくない、祖国滅亡や復員船の襲撃といった流言、大東亜戦争の義務を果たしたかった、インドネシア独立軍に拉致されていたなどである〔5〕。
 日本側は連合軍から「インドネシア側に武器を引き渡してはいけない」という命令が下されてはいたが、密かに武器(戦時中にイギリス軍やオランダ軍から奪取した兵器を含む)を渡したり〔6〕、後にインドネシア人が見つけ出せるように、意図的に川岸や兵舎の床下に武器を残したりした。日本兵らのこうした行為は、インドネシアへの愛着から、アジア解放という大東亜戦争の責任を果たせなかったことから、また連合軍へのせめてもの反抗として生じたのだと言えよう。
 インドネシア独立戦争に「参加」や「参戦」と表現すると、残留者全員が熾烈な戦闘を経験したと思われがちであるが、連合軍とゲリラ戦を展開した者だけではなく、負傷者の治療、武器の修理・製造、現地人の戦闘訓練、ときに日本式の農法までも施した者がいた。彼らは各々異なった方法で「インドネシア独立に貢献」 したのであった。

1-2 インドネシア独立後「ジャワ組」と「スマトラ組」
 日系インドネシア人の相互扶助組織である福祉友の会〔7〕が実施した残留日本兵の実態調査を示しておきたい。表1の①独立戦争時戦没者は、独立戦争時に戦死あるいは病死した者の数である。①の246人中231人、②独立戦争時行方不明者の288人中276人がジャワ島およびスマトラ島で、残りの人々はバリ島やカリマンタン島で独立戦争に参加した人々である。戦没者と行方不明者の数を合わせると534人(59%)と全体の6割を占めることとなる。
 他方、無事に独立戦争を生き抜いた③独立戦争後残留者と④独立戦争後帰国者は合計で369人(41%)となっている。④45人(5%)は1950年代半ばまでに引揚船で帰国した者である(表1参照)。福祉友の会関係者によると、その他のスラウェシ島やニューギニア島などは調べる手立てがなかったという。

① 独立戦争時戦没者246人(27%)
② 独立戦争時行方不明者288人(32%)
③ 独立戦争後残留者(生存者)324人(36%)
④ 独立戦争後帰国者(生存者) 45人( 5%)
合計903人(100%)
表1 インドネシアにおける残留日本兵の実態数〔8〕
出典:福祉友の会(2005:382)

 上記、インドネシアにおける残留日本兵の実態数は、あくまでも福祉友の会の実施した実態調査の結果である。繰り返しになるが、インドネシア独立戦争に貢献した残留日本兵は、同国全土で1,000人とも 2,000人、スマトラ島だけで700人から800人と言われている。そして同国独立後の生存者のなかで帰国の途を選択しなかった者が日系インドネシア人一世となる。
 インドネシア全土の日系一世が福祉友の会設立に乗り出した1970年代中葉から、彼らはスマトラ島で残留した者を「スマトラ組」、ジャワ島で残留した者を「ジャワ組」と称呼するようになる。日系一世の絶対多数が両島に集中していたためであって、「バリ組」や「スラウェシ組」という表現はされていない。スマトラ島からジャワ島へ移住した日系一世は少なくないが、彼らはスマトラ島で残留を決意したため、ジャワ組ではなくスマトラ組のままである。このように、日系一世を地理的に大別するとスマトラ組とジャワ組とに分けられるが、スマトラ組にはインドネシア独立後に同国軍によってアチェ各地からメダンに連れて来られた一派〔9〕と元々北スマトラ州各地に散在していた一派とがある。加藤によると、前者の多くはジャワ島へ移住し、後者の大半はそのままスマトラ島に居続けたのだという〔10〕。

2 スマトラ島における日系インドネシア人一世の居住地
 ここでは、「附 スマトラ地区残留邦人連名簿」資料欄の情報を基に日系一世の1951年(昭和26年)から1958年(昭和33年)の居住地を示す。同資料においてカタカナ表記の地名から居住地を特定できない場合もあったため、本稿ではわかる範囲での記述に止めたい。

2-1 メダン以外の居住地
 上記資料より1950年代のスマトラ島における日系インドネシア人一世の居住地域は、州単位で見るとアチェ州、北スマトラ州、ベンクル州(当時南スマトラ州)、南スマトラ州であったことがわかる〔11〕。市および県単位〔12〕で日系一世の人数の多い順に見ていくと、メダン(市)67人、プマタン・シアンタル(市)15人、タンジュン・バライ(市)11人、パレンバン(市)11人、パダン・シディンプアン(市)および南タパヌリ(県)7人、ランカット(県)5人などとなり、スマトラ島での居住地が特定できない者が11人である。パレンバンは南スマトラ州の州都であるが、その他はすべて北スマトラ州の市および県である。日系一世の集住地域である北スマトラ州の州都メダンに関しては次節で詳述することにして、本節ではメダン以外の地域について見ていこう。

プマタン・シアンタル(市)15人
 1950年代、メダンに次いで日系一世の人数が多かったプマタン・シアンタル(以下、シアンタルと表記)は、メダンの南東約130キロに位置する。シアンタルにはインドネシア独立以前すでに家庭を築いていた日系一世がいたようだが、なぜ同地域に多くの日系一世が集まって来たのだろうか。
 シアンタルは日本軍の集結地点に指定されていたため、日本の敗戦から間もなく、アチェ州ムラボーに駐屯していたおよそ400人の日本兵がシアンタルへ向かった〔13〕。また、太平洋戦争中メダンに置かれていた近衛師団司令部は1945年10月末にシアンタルのマリハット農園へ移駐された〔14〕。加えて、1951年に残留日本兵の多くが軟禁収容のため貨物列車に乗せられて、アチェ東部からメダンへ運ばれてくる途中、列車の速度が落ちた瞬間に3人が飛び降り、逃亡を図った。そして、シアンタルに辿り着き、森に隠れて暮らした。この逸話はメダンの日系一世・二世の間でよく知られている。この3人に加えて、スマトラ島各地でインドネシア独立を迎えた日系一世らが、日本軍の集結地点であり、近衛師団司令部のあったシアンタルへ集まって来た、と考えるのが妥当であろう。
 ある日系一世の手記によると、スマトラ島・シアンタル日本人会(蘇島先達日本人會)は、16人の有志によって1956年10月10日に結成された。日系一世16人とその配偶者14人に加えて日系二世20人の小規模な日本人会であった。彼らの居住地はシアンタルだけでなく、たとえばシマルングン県ハトンドゥハン群タンガ・バトゥ村や同県ジャワ高地群バリムビンガン村の居住者がいたというように、シアンタルおよびその周辺におよんでいた。
 同日本人会の成員は1960年代中葉くらいから徐々にメダンへ移住するようになる。大都市メダンは職を探すには好都合で、おそらく職を求めての移住であっただろう。1990年代後半までには大多数が各々別個にメダンやタンジュン・プラへ移住し、現在ではシアンタルに住む日系人は2家族だけである。

パダン・シディンプアン(市)および南タパヌリ(県)7 人
 北スマトラ州南部のタパヌリ地区〔15〕には1952年結成のタパヌリ川日本人会が存在していた(写真1参照)。日系一世・山梨茂氏(1922-1996)の回想録〔16〕およびある日系二世男性の証言から、タパヌリ地区に日系一世が集まってきた経緯とタパヌリ川日本人会の成員であったと思われる日系一世12人の氏名がわかった。しかし、同会に属していた父親または祖父を持つ日系二・三世に話をうかがっても、写真1 に写っている日系一世は15人だが、実際のメンバーは何人であったのか、どのような活動を実施していたのか、また何年に解散したのか、などすべて不明である。このように、タパヌリ川日本人会に関する情報は限定的ではあるが、同会は日系一世同士が異国の地で互いの存在を認識し合い、情緒的結束を補うような目的で結成されたのだと推察できる。

写真1
写真1 タパヌリ川日本人會 福祉友の会
メダン支部事務所に保存されている写真を
筆者撮影

パレンバン
 落下傘部隊で有名な南スマトラ州のパレンバンであるが、「附 スマトラ地区残留邦人連名簿」によると11人の日系一世が居住していた。シアンタルやタパヌリにおける日系一世らのように日本人会を結成しなかったようで、パレンバンで長く生活を営んだ者はわずかと考えられ、大多数が北スマトラ州や同じくスマトラ島のベンクル州、同島の南端に位置するランプン州、ジャワ島へ移住した。

2-2 日系インドネシア人一世の集住地域メダン
 1950年代のスマトラ島における日系インドネシア人一世の居住地は、「附 スマトラ地区残留邦人連名簿」から155人中67人がメダンであったことがわかる。そして現在は日系二世から五世まで約3,000人がメダンに居住しているように、同市は1950年代よりこれまで日系インドネシア人の集住地域なのである。以下、メダンに日系一世が集中するに至った理由について見ていく。

日系一世が集住するに至った理由
 インドネシア独立達成後、アチェ各地に残留していた残留日本兵は、1950年12月から1951年10月にかけて、家族のある者は家族同伴で100人以上がメダンの宿舎2ケ所に収容軟禁されていた。インドネシア政府は、残留日本兵を保護し、後には日本へ送還するという名目で、彼らをメダンへ送った。政府と対立していたイスラーム過激派のダルル・イスラーム勢力の行動に日本人が巻き込まれないための予防的措置ということであった〔17〕。
 名目上は以上のようであるが、実際のところ、インドネシア側にとってアチェ民衆の指導的立場、武力の骨幹となり得る残留日本兵の存在は脅威であったが故にメダンへの移動を命じたのである。当時、インドネシア政府はアチェ州、東海岸州(現北スマトラ州)、タパヌリ州(現北スマトラ州)をまとめて北スマトラ州として併合しようと動き出していた。アチェは1874年よりオランダの侵撃を受けながらも、必死の抵抗で1904年まで完全な植民地化を許さなかった地域であり、インドネシア独立戦争時もアチェ人の独立に対する気概は凄まじかった。そのため、同政府はアチェの人々が州統合に当然抵抗するだろうと踏んでおり、そこに残留日本兵が加担するのを恐れての措置であった。インドネシア独立直後にアチェ以外、つまりメダンおよびその周辺やタパヌリなどに居住していた残留日本兵らは、インドネシア政府に監視されることなく自由な生活を送っていたのであった。このように、1950年代に日系一世がメダンに集住するに至った最大の理由は、インドネシア政府によるアチェからの強制移動である。
 メダンが日系一世の集住地域となったのには他の理由も考えられる。スマトラ島の最大都市メダンは仕事を見つけるのに好都合であったことであろう。また、すでに日系一世が多く暮らしていることを人伝で知り、経済的に不安定ではあっても心理的に落ち着ける仲間のいる場所へやって来たのだと考えられる。さらには、1950年代中葉以降のインドネシアへの日系企業の進出も日系一世の同市への移住を促した理由となっただろう。一方で、それはスマトラ島から日系一世の一部がジャワ島に移住した要因であると言えよう。

蘇島棉蘭日本人會(スマトラ島メダン日本人会)
 1953年、日系インドネシア人一世らによって蘇島棉蘭日本人會(スマトラ島メダン日本人会)が結成され、彼らはこれを「メダン日本人会」と呼んだ(写真2 参照)。日系一世らはインドネシア語、仕事、法的身分といった生活のあらゆる面で問題を抱えていたので、それらを処理するには個人ではなく団結した方が有利であるとの、共通の問題に対応すべく結成されたのであった。同会は忘年会や新年会をメダン市内にあるホテルで開催し、日本人墓地の清掃、盆の時期には慰霊祭を催した。諸行事にはメダン周辺に住む日系一世だけでなく、遠方のシアンタル、タパヌリ、アチェ州などからも参加する日系一世もいた。

写真2
写真2 蘇島棉蘭日本人會
(スマトラ島メダン日本人会)
日系インドネシア人二世 J 氏提供

3 スマトラ島における日系インドネシア人一世の職種
3-1 ドクトル・ジュパン

 日系インドネシア人一世の職種に関して特筆すべきは医療従事者、ドクトル・ジュパン(インドネシア語で正式名称はMantri Kesehatan Doktor Jepang , 俗称Doktor Jepang となる)が多かったことである。アチェ方面で残留した残留日本兵のおよそ100人の三分の一は、ドクトル・ジュパンを生業としていたことがあるという記述が見られるほどである〔18〕。
 国文学者の萩谷朴氏(1917-2009)は、1943年5月に近衛師団の一員として北スマトラ州メダンの外港ブラワンからインドネシアに入国し、同州カバンジャヘ、シアンタル、アチェ州ロクスマウェ、プルラなどの野戦病院や野戦倉庫で種々の任務を遂行し、終戦後インドネシアに残留することなく無事に復員した。同氏の回想録には、戦時中にドクトル・ジュパンの走りと言えるような、アチェ人に医療行為を施した体験が綴られている〔19〕。
 他方、戦後タイを経由して無事帰還を果たした長谷川豊記氏(1917年生まれ)は、インドネシア独立戦争時に北スマトラ州キサランで医療行為を行っていた〔20〕。同氏は「能弁のヤブ医者の処方が癒やすのではなくて、薬を知らぬ現地人の身体に、薬効が著しかっただけの話である〔21〕」とドクトル・ジュパンとしての時分を述懐する。両氏の他にもインドネシア人に医療行為を施した者がいたことから、インドネシア独立以前に現地の人々だけでなく残留者の間にもドクトル・ジュパンの存在は広く知れ渡っていたのかもしれない。
 「附 スマトラ地区残留邦人連名簿」の資料欄には「薬種商」、「売薬業」、「医師」という表記が確認でき、1952年-1958年の間に少なくとも155人中18人が医療行為または売薬業に携わっていたことがわかる。その地理的範囲は、北スマトラ州メダン、シボルガ、パダン・シディンプアン、プマタン・シアンタル、アチェ州ムラボー、ランサとなる〔22〕。その他、インドネシア独立後の1950年代以降に、アチェ州ロクスマウェ、北スマトラ州アサハン、キサラン、コタ・ノパン、バタン・クイス、トゥビン・ティンギ、ビンジャイでドクトル・ジュパンとして診療所を開業していた日系一世をその子どもや孫たちから、また当時の日系一世を知る非日系人から筆者は確認している。
 そこで、「薬種商」および「売薬業」に従事していた日系インドネシア人一世を一括りにドクトル・ジュパンと見なしてしまって問題はないのであろうか。たとえば筆者は、父親(日系一世)が自転車で村々をまわり往診していたという話を、同資料で「薬種商」を営んでいたとされる日系一世2人の子どもたち(日系二世)から直接うかがっている。さらに、その他の日系二世らの証言およびいくつかの文献〔23〕からも診療していた者が多くいたことが確認できる。
したがって、同資料に「薬種商」ないしは「売薬業」と記載されてはいるが、その該当者の大多数は単に医薬品を扱っていたのではなく、実際には医療行為も行っていたと言える。
 医師としての正式な免許を持たずに開業したドクトル・ジュパンたちは、仲間内ではヤブ医者と呼び合っていたようだが、診療を続けていくうちに医者らしくなっていったのだという。
そんなドクトル・ジュパンではあるが、困窮する患者からは治療費の代わりに野菜や果物を受け取り、夜間でも村人が駆け込んできて助けを求められれば、昼夜問わずすぐに往診にかけつけた。
 地域住民から重宝された理由は他にもある。異国の地からやって来た日本人であるという物珍しさに加えて、そのオラン・ジュパンに診てもらうと大概の病気が治ったからである。また、当時はプスケスマス(pusat kesehatan masyarakat , 略称 puskesmas )と呼ばれる地域診療所がなかった、田舎に住む人々からすればオランダ植民地時代に建設された病院が地理的に遠かったといった理由も挙げられる。

3-2 その他
 「附 スマトラ地区残留邦人連名簿」の資料欄によると、ドクトル・ジュパン以外の日系一世の職種は、製材業12人、自動車修理業11人、農業9人、日系企業8人、機械技術・修理工3人、建築請負業3人、運転手3人、現地軍人3人、漁業2人、雑貨商2人などである。
 自動車修理業や農業を単独ではじめる者がいれば、製材業や建築請負業を仲間と2人で力を合わせて共同経営というかたちで開業する者がいた。また、結婚相手の家族・親族や、太平洋戦争時またはインドネシア独立戦争時に出会い親交を深めた現地の人々、たとえば華人系インドネシア人の経営する工場で雇用してもらう、またはトバ・バタック人に出資してもらい製材業や建築請負業を営むというように、インドネシア人の協力を得て生活を営む者がいた。ドクトル・ジュパンを含め、日系一世らの器用さ、律儀さ、生真面目さは、職種を問わず周りのインドネシア人から一目置かれる存在であったようだ。時間を守り、丁寧に仕事をこなすといった日本人らしさがインドネシア人に評価されたのだと言えよう。
 インドネシア人でさえも生き抜くのが困難なインドネシア独立後の1950年代はとくに職を転々とした日系一世が多かった。ある日系一世はインドネシア国軍除隊後、シアンタルでオートバイの修理工やドクトル・ジュパンとして生計を立てていた。その後、シアンタルからおよそ30km 離れた町へ移住し、高等専門学校の教師となった。担当科目は体育(柔道と空手)、音楽、日本語、図工、美術と多岐に渡っていた。
 「附 スマトラ地区残留邦人連名簿」には、1958年時点でメダンにおいて「柔道教師」をしていた日系一世を1 人確認できる。その日系一世とは別にシアンタルで柔道を教えていた者がいた。同氏は1950年代前半よりメダンで働いており、それ以前はシアンタルで柔道教室を開いていた(写真3 参照)。メダン移住後しばらくは柔道をインドネシア人、主に華人系インドネシア人に教えるために、週末などを利用してシアンタルへ赴いていたそうだ。しかしメダンでの仕事が軌道に乗り、忙しくなると昼夜働くこととなり、柔道の指導は現地のインドネシア人に任せるようになった。

写真3
写真3 プマタン・シアンタルの柔道教室
日系インドネシア人二世 A 氏提供

 他方で、定年まで常に職を変えながら大家族を養った日系一世もいた。日系一世には子沢山の大家族が多かったことから、子どもが高校生くらいの年齢になると、早ければ小学校を卒業すると家族のために働いた日系二世は多くいた。日系一世の収入が安定しなくても、子どもたち日系二世に家計を支えてもらい生活を営んだ。

日系企業
 「附 スマトラ地区残留邦人連名簿」の資料欄では、鹿島貿易、大同物産、東洋綿花、丸紅といった日系企業に勤務していた日系一世を8人確認できる。インドネシアへの日系企業の進出は1956年頃に開始され、それが本格化したのは日本で1967年外資法が制定されてからのことであった〔24〕。スマトラにおいて日系一世が勤務したのは既述の4社に加えて三井物産、野村貿易など25社以上に上り〔25〕、多くがメダンに支社を置いた。
 インドネシア語を操り、現地に精通する日系一世らは、日系企業にとって重要かつ有用な存在であった。ただし、雇用形態は現地採用で任期が決まっている場合が多く、正社員として雇用される日系一世はほとんどいなかったようだ。しかし仲間内で日系企業の仕事を紹介し合ったり、日系企業とのつながりを利用してインドネシアで起業したりと、日系一世らの経済生活に多かれ少なかれ良い影響を与えたと言えよう。日系一世にとって日系企業を通じて日本の情報や食べ物を入手できたことも喜ばしい限りであった。さらに、日系企業との関わりは日本との結びつきを取り戻し、また絶やさずにいることにつながった。

おわりに
 日系インドネシア人一世のなかでリーダー的な存在であった乙戸昇氏(1918-2000)は、『月報』No.169(1996年5月号)で、日系インドネシア人一世の戦後50年の歩みを6つの時代に区分し、自らの体験を回顧しつつその概略を述べている。乙戸氏の時代区分は、1.1940年代後半4ヵ年「インドネシア独立戦争時代」、2.1950年代の10ヵ年間「イ国社会に於いての生活模索時代」、3.1960年代の10ヵ年間「身分の確定と生活基盤の確立時代」、4.1970年代の10ヵ年間「躍進と初老期時代」、5.1980年代の10ヵ年間「老年期とヤヤサン福祉友の会時代」、そして6.1990年代の10ヵ年間「余生生活とヤヤサン福祉友の会の世代交代」である。
 本稿では、スマトラ島に生きた日系インドネシア人一世を事例として、乙戸氏の時代区分でいうところの2. 1950年代のインドネシア社会においての生活模索時代の様子を記述した。その結果、スマトラ島の日系一世は北スマトラ州、なかでも州都メダンに集中していたこと、ドクトル・ジュパンとして成功した者を除くと、概して日系一世の経済生活は芳しくなかったこと、の2 点が明らかとなった。インドネシア人でさえも困難な時代に、彼らは仲間と手を取り合い懸命に生きたのであった。
 筆者は、日系インドネシア人一世が1940-1950年代に異国の地でどのように生きたのかを解明するために、上記の時代区分1.および2.に、日本のインドネシア占領時代を加えて、日系一世の改宗、現地女性との結婚、日系一世同士の交流および現地の人々との交流といったマイクロな視点からの調査研究に引き続き取り組んでいきたい。


註釈
〔1〕 本稿では、日系インドネシア人一世または日系一世、残留日本兵、日本兵、一般邦人という呼称を脈絡に応じて使い分ける。
〔2〕厚生省(1958)『スマトラ地区未帰還者等名簿(附 スマトラ地区残留邦人連名簿)』。
〔3〕日系インドネシア人二世の間では、日本軍はシンガポールからインドネシアに上陸する際にオランダ軍の意表を突いてブラワンからではなく、タンジュン・バライより入国したといった逸話が共有されている。
〔4〕川田文子(1997)『インドネシアの「慰安婦」』明石書店、174頁。
〔5〕日系インドネシア人一世らが残留を決意した諸理由は、倉沢愛子(2011)『戦後日本=インドネシア関係史』草思社、後藤乾一(2002)「元日本兵クンプル乙戸(1918 ~ 2000年)と戦後インドネシア」『アジア太平洋討究』早稲田大アジア太平洋研究センター、4:49-63頁、林英一(2007)『残留日本兵の真実 インドネシア独立戦争を戦った男たちの記録』作品社、福祉友の会(2005)『インドネシア独立戦争に参加した「帰らなかった日本兵」、一千名の声 福祉友の会・200号「月報」抜粋集』などに詳しい。
〔6〕インドネシア独立戦争時に日本軍がインドネシア側(国軍、青年党、その他のゲリラ部隊)へ渡した、あるいは止むを得ず引き渡した武器は陸海軍併せて、小銃63,000丁、機関銃5,000丁、火砲427門などであった。産経新聞社(1995)「未帰還兵 s.20」『戦後史開封』437頁。
〔7〕福祉友の会(インドネシア語ではYayasan Warga Persahabatan, YWP )は、日系インドネシア人一世の親睦および相互扶助を目的として1979年に設立された、インドネシア全国規模の日系人組織である。本部はジャカルタ、支部はスラバヤとメダンに設置された。日系人は同組織をYayasan ないしYWP と呼ぶ。
〔8〕 福祉友の会(2005)『インドネシア独立戦争に参加した「帰らなかった日本兵」、一千名の声 福祉友の会・200号「月報」抜粋集』382頁。
〔9〕インドネシア独立後、アチェ各地よりメダンへ護送され、軟禁収容された残留日本兵は100人にも及ぶ。このことについては第2章第2節で触れる。
〔10〕2011年11月25日に加藤裕氏より筆者宛てに送られてきた電子メールの内容。同氏は元産経新聞ジャカルタ支局長で、主な著書に『大東亜戦争とインドネシア 日本の軍政』がある。
〔11〕福祉友の会(1995)『元日本軍人残留者名簿 ジャワ スマトラ バリ(Yayasan Warga Persahabatan Dafter Issei Hidup Tahun 1995 )』と筆者のフィールドワークの成果を併せると、スマトラ島で生きた日系一世は、1995年時点では8州で構成されていた同島のリアウ州以外の7 州に存在していたことがわかる。未婚のままスマトラ島外へ移住した若干名を除く日系一世が、最初に生活の拠点を築いた場所は7州のいずれかにおいてであり、インドネシア独立後の1950年代から1980年代前半にかけて、主に仕事の関係でスマトラ島内では大都市メダンへ、島外ではジャワ島やカリマンタン島へ移住している。そのままランプン州や南スマトラ州で暮らし続けた者もいた。
〔12〕インドネシアにおいて、州(provinsi)は1級自治体であり、県(kabupaten)と市(kota)は2級自治体であるため、県と市は同格である。したがって、日本で言うところの千葉県千葉市や静岡県静岡市というように、市は県に属していないことに留意しなくてはならない。県と市以下の行政単位は郡(kecamatan)、小区(kelurahan)、住区(dusun)、そして村(desa)と続く。
〔13〕上坂冬子(1997)『南の祖国に生きて インドネシア残留日本兵とその子供たち』文藝春秋、35頁。
〔14〕総山孝雄(1992)『インドネシアの独立と日本人の心』展転社、97頁。
〔15〕北スマトラ州のパダン・シディンプアン(市)と南タパヌリ(県)は1950年までタパヌリ州であった。
〔16〕山梨茂(1985a)「独立戦争余談 まぼろし城1」『月報』No.39: 1 – 2頁、山梨茂(1985b)「独立戦争余談 まぼろし城2」『月報』No.40:1 – 2頁、山梨茂(1987)「ナガロワ(Kawin Lari = 逃避結婚)」『月報』No.64: 2 – 3頁。
〔17〕倉沢愛子・前掲書、139頁。
〔18〕本田忠尚(1990)『パランと爆薬』西田書店、250頁。
〔19〕萩谷朴(1992)『ボクの大東亜戦争 心暖かなスマトラの人達 一輜重兵の思い出』河出書房新社、153-156頁。
〔20〕長谷川豊記(1982)『スマトラ無宿 虎憲兵潜行記』叢文社。
〔21〕長谷川豊記・前掲書、127-128頁。
〔22〕厚生省・前掲書。
〔23〕長洋弘(2007)『インドネシア残留元日本兵を訪ねて』社会評論社、吉田正紀(2010)『異文化結婚を生きる 日本とインドネシア/文化の接触・変容・再創造』新泉社などが挙げられる。
〔24〕永井重信(2008)『日本・インドネシア関係50年史 新たな半世紀に向けて』日本・インドネシア友好年実行委員会〈非売品〉、21頁。
〔25〕福祉友の会(1988)『月報』No.80、4 – 6頁。

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