Reexamination Of Japanese “Southern” Experience

from The 1920s To 1950s

日本人の「南方」経験の再検討

-グローバル時代の新しい歴史像の構築に向けて-

【論文】インドネシアにおける日本「神話」の誕生と展開 1930年代と1960年代(『報告・論文集』所収)

スーシー・オング(インドネシア大学 大学院 日本地域研究科 講師)

English ver.

はじめに
 インターネットで日本についての情報が簡単に検索でき、渡日経験者が近年激増したにもかかわらず、インドネシアでは今日においても「日本精神=武士道」、「日本人は近代化を成し遂げたが伝統(=固有)文化を未だに守っている」といった「理想的な民族としての日本」が依然として通説となっている。
 これは権威のある官僚・文化人の主張及び彼らの主張を拡散し続けているマスコミの役割が大きいと思われる。では、インドネシアの官僚・文化人が何時、如何なる目的を以て、如何にして「日本文化=武士道」「日本=伝統と近代との両立」という「日本像」を作り上げたのか。
 小論は20世紀30年代と60年代における日イの文化人の交流とインドネシア文化人の対日認識、具体的には1930年代と1960年代にインドネシアで発行された雑誌・新聞に掲載の記事を手掛かりに、それらの記事に描かれた日本像、及びそのような日本像が形作られ、定着した時代的背景を取り上げる。具体的にいうと、30年代ではインドネシアの知識人たちが未来のインドネシア国家の国民文化の在り方を模索していた時期であり、日本では準戦時体制下で「反共」「反自由主義」の新しい「日本文化」が創り上げられた時期であった。60年代はインドネシアの国家経済破綻・日本の高度経済成長期の真っただ中、という時代であった。
 なお、資料の制限のため、1930年代の蘭領インドの首都バタビア(現在のジャカルタ)でオランダ教育を受けた文化人が発行した月刊誌『新詩人』(『プジャンガ・バル』、1933年創刊)と、同じく1930年代に東京で発行された欧文(英・独・仏文)雑誌『Cultural Nippon』(1933年創刊)のみを分析の対象とする。『Cultural Nippon』は当時の内務省警保局長・松本学が共産主義運動の弾圧のための理論的武器として案出した「日本主義」を普及するために設立した「日本文化連盟」が発行した雑誌であり、特に日本が国際連盟を脱退した後、国際的に日本の政策の正当性をアピールする一環として「日本伝統文化」の宣伝が主目的であった〔1〕。興味深いことに、『Cultural Nippon』誌は現在のインドネシア国家図書館(蘭領インド時代からの継承)にあり、且つ、『新詩人』誌の日本文化関係の論説は『Cultural Nippon』誌の論説からの引用が明記されたものもあり、明記されていない場合も類似点が見て取れる。1960年代に関しては、インドネシアに発行された全国紙における、神格化された「文化」及び日本文化に関する論説を取り上げる。

1.1930 年代:蘭領インドの知識人と「日本」との出会い
1.1.1930 年代の蘭領インド:未来の「国民文化」の模索

 蘭領インドでは第一次世界大戦を契機に西洋教育を受けたエリートの間に民族意識が芽生え、1920年代のコミンテルンの反帝国主義運動の影響を受け、1928年に象徴的なイベントとして国内各地の青年団体の代表がバタビアで大会を開き、「一つの祖国、一つの民族・一つの言語」を掲げた「青年の誓い」が立てられた。独立後、このイベントは民族意識の誕生と見なされインドネシア史のマイルストーンとして位置づけられているが、当時はこの情報に接したのは恐らく都市部の知識人のごく一部に限られていたであろう。
 しかし、確実なことは、こうした民族意識の芽生えは当時バタビア在住のスマトラ出身の知識人たちに受け継がれた。彼らは未来の新生国家インドネシアの国民文化の在り方を模索するため、同人誌『新詩人』(『プジャンガ・バル』)〔2〕を発行した。因みに「詩人」を誌名に冠されたのは、ヨーロッパ諸国が全て「国民的詩人(文豪)」がいて国民統合の象徴的存在であるため、インドネシアも国民統合の象徴としての詩人の地位を確立すべきであると主張された。
 『新詩人』は、新生国家インドネシアの国民文化の在り方について史上初めて論争が繰り広げられたこと、『新詩人』の論客がインドネシア独立後も長きにわたりインドネシアの論壇の長老であったこと、この二点から注目すべきであろう。
 『新詩人』の寄稿者はおおむね1910年前後に生まれ、オランダ植民地政府によって設立された学校で近代教育を受け、欧州の言語(蘭・英・仏・独語)の読解力を身につけ、欧文の出版物(書籍・新聞・雑誌)を通じて第一世界大戦後の世界各国の動向、例えば民族独立運動、ドイツの文化哲学者オスヴァルト・シュペングラーの問題作『西洋の没落』、インドのベンガル詩人ラビンドラナート・タゴールがノーベル文学賞を受賞し世界的に「東洋の精神」のシンボルとして注目されたこと、中国の新文化運動、日本の近代化などについての情報を積極的に収集し、これらの情報をもとに、未来の新しいインドネシア国民文化のあるべき姿及び教育を通じての国民文化の創出をめぐって議論した。
 議論は、未来の国民文化における、地域の色彩が濃い伝統文化の扱いをめぐって展開された。シュペングラーの西洋文明没落論とタゴールの東洋精神論に啓発され、インドネシア国民文化は各地方の伝統文化の集大成たるべしと主張する論者がいた。これに対し、インドネシアが植民地化された事実は各地の伝統文化が西洋近代に敗北した証拠であり、したがって、これらの伝統文化を全て葬り去り、西洋の優れた文化を取り入れてこれを新国家インドネシアの国民文化とすべきである、との反論があった。何れも諸外国の事例をもとにそれぞれの持論を展開したのである。
 興味深いことに、一国または民族を個別に取り上げて紹介し論評したのは、日本のみであった。

1.2.『新詩人』に描かれた「日本像」
 『新詩人』掲載の日本に関する論説は下記の通りである:
 1.1935年7月号及び8月号、二回連載の「民族教育の基礎としての武士道」〔3〕
 2.1935年9月号、「皇道-日本の理想的な社会構造」〔4〕
 3.1935年12月号、「日本文学におけるセンチメンタリズムについて」〔5〕
 4.1936年1月号、「西洋人が見た現代日本芸術」〔6〕
 5.1938年7月号、「日本における新文化運動」〔7〕
 上記1〜3は筆者がスワンディであるが、独立後(1950年代)のインドネシアの教育相のスワンディであるか否かは確定できない。4は筆者の氏名が無記載、5の筆者は1932年日本政府の招へいで渡日し、1937年まで東京外国語学校でインドネシアの言葉を教え、のちにインドネシアの国語辞典の編纂者として知られているプルワダルミンタである。

1.2.1.副島八十六〔8〕の「武士道」
二回にわたる「武士道」に関する連載において、筆者はまず当時ドイツの目覚ましい復興に注目し、ナチスの文化政策担当者アルフレッド・ローゼンベルクの著書『二十世紀の神話』を取り上げ、国民教育に「民族神話」(‘volksmythe’)の重要性を強調し、「東洋」におけるその成功例を日本の「武士道精神」に求め、副島八十六の著書『武士道の神髄』の英訳版を引用して、「武士道」とは日本の神代より誕生した日本民族の精神であり、神道・仏教・儒教の影響によって「武士道精神」が日本の民族精神としてますます確立された。徳川時代において、武士道が「チョウニンドウ(町人道)」に発展し、明治維新以降は更に「ニッポンドウ(日本道)」に発展した。世界に不正義と悪が横行している現在(1935年、日本が国際連盟脱退後)、武士道は更に「ニンゲンドウ(人間道)」として全世界に広めるべきである。

1.2.2.「皇道」とは
 日本の「皇道」を紹介する論稿では、マルキシズムなどの外来思想の影響によって日本国家の存立が脅かされた現在、「万世一系」の天皇制に立ち返ってこれに対抗することを紹介し、新渡戸稲造の1932年の著書Some Basic Principles of Japanese Politics と、北沢直吉(外交官)の著書The Government of Japan(1929)を引用しつつ、日本人は自己犠牲を貴ぶ伝統を持っているが、近代化によって個人主義が発達し自己犠牲の精神が衰退しつつあるが、外国からの脅威にさらされる場合、日本人は民族として一致団結する、と結んでいる。
 この論稿の「種本」は明らかにされていないが、前述の日本文化連盟発行Cultural Nippon誌の1934年6月号掲載のCHIKAO FUJISAWA. THE KODO PRINCIPLE AND PRESENT ECONOMIC PROBLEM との論調の近似性がうかがえる。なお、この英文の論稿の筆者、藤沢親雄(1893-1962)は国家主義者であり、のちに大政翼賛会東亜局長を務めた者である。

1.2.3. 「日本文化連盟」が掲げた日本優越論
 「日本文学におけるセンチメンタリズムについて」はヨーロッパ近代文学を日本の古典文学と対比させて、ヨーロッパ(=西洋)文学はヒューマニティを強調するのに対し、日本文学は人生観と精神性を強調すると主張している。具体的には、吉田兼好の『徒然草』とゲーテの『若きウェルテルの悩み』やオランダの18世紀の詩人の作品と比較し、インドネシアの文学者が日本文学の精神性を模倣してインドネシア国民文学を創作すべきであると主張している。
 この論稿の種本はCultural Nippon 誌の1935年10月号のDefinition of the Sentimentality in Japanese Classics である。

1.2.4.日本は西洋に学び、西洋に勝った:藤田嗣治
 「西洋人が見た現代日本芸術」は東京に開催された文部省主催の美術展についての論評である。筆者によると、西洋で創作された数々の素晴らしい芸術作品は西洋社会でもはや見向きもされていないが、藤田嗣治のような日本人芸術家西洋の技巧を修得して、西洋芸術の精髄を日本社会に普及し、複製技術を駆使して、いわば僻地に住んでいる人々まで西洋の素晴らしい芸術作品が鑑賞できることは大変すばらしいと激賛した。
 藤田嗣治に関する筆者の情報源は不明だが、同時代に日本で国際観光客の誘致に積極的であったため、筆者自身の訪日の際の見聞によると思われる。

1.2.5.日本における伝統回帰運動
 『新詩人』1938年7月号掲載の「日本における新文化運動」は満州事変・日本の国際連盟脱退後の国際的孤立を打開するための国際文化振興会の設立・マルキシズムと自由主義の両方の超克を目指しての祭政一致と邦人主義を簡潔に紹介している。日本各地で近年では各種の伝統文化団体が設立され、新しい国民文化の創造が活発に行われ〔9〕、非常に素晴らしいことであると筆者が高く評価している。五年間の東京滞在から帰国したばかりの筆者は恐らく日本滞在中はこれらの団体の関係者と交流があり、したがって、筆者自身の見聞による可能性が高い。
 筆者は新しい日本国民文化の創造に積極的に取りかかる日本の文化人の姿勢に、自分を含めた『新詩人』の同人たちも見倣うべきであると結んでいる。
 この論稿に記された諸事項は、Cultural Nippon 誌1938年3 月号掲載のA NEW TREND IN THE CONTEMPORARY CULTURAL MOVEMENT OF JAPAN に詳細に紹介されている。プルワダルミンタが執筆した際、恐らくCultural Nippon 誌のこれらの論稿を参照したと考えられる。

1.3.全面欧化論者の日本観
 『新詩人』誌上の文化論争において最も強く全面欧化を主張したのはスタン・タクディル・アリシャバナであり、西洋の科学技術を取り入れつつ、伝統文化を民族のの精神として守るべきである、いわば日本の和魂洋才に似た主張をした論者に対し、アリシャバナは、西洋の科学技術は西洋の精神の産物であり、西洋の精神を取り入れることなく西洋の科学技術をマスターすることはあり得ないと反論した。彼は日本の近代化を高く評価し、伝統文化の墨守ではなく新国民文化の創造に取り組んだことが、日本を近代化の成功に導いたと評価している。日本を手本に、インドネシアの文化人も新しい国民文化を積極的に創出すべきであると強調した〔10〕。
 アリシャバナは日本軍政期(1942年3月から1945年8月まで)は積極的に日本占領軍の文化政策に協力し、インドネシアの独立後は『新詩人』誌を復刊して論壇をリードし続け、1949年にオランダ式の高等教育を受けた仲間と共同してジャカルタでインドネシアの私立大学一号、ナショナル大学を創立し、学長を務めていた。その傍ら、多産な小説家でもあり、1994年に死去するまで、インドネシアの代表的な文化人であった。
(続く)

註釈
〔1〕海野福寿「一九三〇年代の文芸統制 松本学と文芸懇話会」『駿台史学』52(1981年3月)
https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/dspace/bitstream/10291/6040/1/sundaishigaku_52_1.pdf
〔2〕『 新詩人』についての先行研究には、Heather Sutherland. Pudjangga Baru: Aspects of Indonesian Intellectual Life in the 1930s. In: Indonesia. No. 6(Oct. 1968), Cornell University Press が挙げられる。
〔3〕Soewandhie. BUSHIDO SEBAGAI DASAR PENDIDIKAN BANGSA I. POEDJANGGA BAROE. Vol. III no. 1(July 1935)pp. 2-9 & Soewandhie. BUSHIDO SEBAGAI DASAR PENDIDIKAN BANGSA II. POEDJANGGA BARU Vol.III no. 2(August 1935)pp. 52-61
〔4〕Soewandhie. KODO, TJITA-TJITA DJEPOEN TENTANG SOESOENAN MASJARAKAT. POEDJANGGA BAROE. Vol. III no. 3(Sept. 1935)
〔5〕SOEWANDHIE. KETERANGAN TENTANG ARTI ‘SENTIMENTALITEIT’ DALAM KESOESASTERAAN NIPPON. POEDJANGGA BARU. Vol III no. 6( Dec. 1935), pp. 165-168
〔6〕MATA BARAT MELIHAT SENI DJEPANG MODERN. POEDJANGGA BAROE. Vol. III no. 7 (Jan.1936), pp. 203-207
〔7〕 W.J. S. POERWADARMINTA. PERGERAKAN KEBOEDAJAAN BAROE DI NIPPON. POEDJANGGA BAROE. Vol. V no. 1(July 1938)pp. 5-8
〔8〕副島八十六(1875-1950)、明治末期に渡米の努力をかさねても失敗し、山路愛山や大隈重信の支援を受けて南洋やインドへの渡航に成功し、日印協会理事を務めたり蘭領インドに事業を手掛けたりした。国立国会図書館に副島関係文書の目録から、日本国内の政・財・官界及び諸外国の政財界との広い交友関係がうかがえる。
〔9〕元警保局長松本学が学生・青少年の赤化防止対策として、日本主義というイデオロギーを創出してマルキシズムに対抗すべきであると主張し、財閥や政府関係者を説得して資金確保と認可を受けた。設立された団体の名称・趣旨・事業及び予算については前掲の海野福寿論文を参照されたい。
〔10〕Sutan Takdir Alisjahbana. DI TENGAH-TENGAH PERDJOEANGAN KEBUDAJAAN. POEDJANGGA BARU Vol. IV no. 3 / 4(Sept./ Oct. 1936)

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