鳥海早喜(日本大学 芸術学部 写真学科 准教授)
はじめに
本研究プロジェクトにおいて論者は、日本とインドネシアの関係性について「写真」を通して探ることを行っている。本論では『アサヒグラフ』に掲載されたインドネシア関連記事の撮影者調査を中心に、インドネシアと日本の写真を通した関係性を論じていく。
インドネシアと日本の写真に関する先行研究は少ない。後述する写真絵葉書研究や、戦時下における国策宣伝の中で「日本を対外に向けて、どのように写真を使って見せていたか」という視点からのメディア研究に限られていると言える。本論では、戦前から続く日本とインドネシアの写真を通じた交流について述べた上で、「日本が占領地をどのように日本国内に対して見せようとしていたか」「その写真を撮影したのは誰なのか」という視点から『アサヒグラフ』を分析する。加えて、そこから戦時下における写真分析調査の問題点も明らかにしていく。
1. インドネシア初期写真史と日本
インドネシア初期写真史は、日本においてよく知られていないのが現状である。ここでは、
2016(平成28)年に刊行された『PHOTOGRAPHY IN SOUTHEAST ASIA:A Survey』(Zhuang Wubin, NUS Press)から概略史を紹介する。1839(天保9)年にフランスでダゲレオタイプという写真技術が世界で初めて公式に発表されると、「写真」は瞬く間に世界中に広がっていく。インドネシアにおいても1840(天保10)年頃から当時の統治国オランダの写真家を中心とするヨーロッパの写真家たちによって「写真」が伝播される。ヨーロッパの写真家たちがインドネシアを撮影し、彼らがインドネシアの人々に写真撮影に関する技術と文化を伝授することで、インドネシア国内に「写真」が広められていくことになる。
インドネシア・ジャワにおける最初の写真家と位置付けられているのは、1860年代に写真を学び1871(明治4)年にジョグジャカルタで法廷画家兼写真家になったKassian Cēphas(1845-1912)である。その後、1900(明治33)年前後になると中国人写真家のスタジオも進出し、1924(大正13)年には現存する最古の写真クラブであるPreanger Amateur Fotografen Vereniging が中国人を中心にバンドンで設立される。また、ジャーナリズムの分野についてはオランダの出版物の影響を強く受けながら1920年代に発展していく。
この中で、日本の名前が初めて登場するのは第二次世界大戦中のことである〔1〕。1937(昭和12)年にバタビア(オランダ植民地時代の呼称・後のジャカルタ)で創設したthe Antara news agency という通信社が「Domei」によって吸収されたという内容である。ここで言う「Domei」とは無論、同盟通信社のことである。1944(昭和19)年には7 名の若者が「Domei」によってジャワの異なる地域から採用され、写真のトレーニングを受けたともされている。
後述するように1900(明治33)年前後から商業を目的とした日本人がインドネシアに渡っており、日本人写真館もインドネシア各地で経営されている。そのため、日本写真界とインドネシア写真界が戦時まで全く無関係であったとは考えづらく、両国の写真技術や表現の流行などが相互に影響を与え合っている可能性はあると考えられるが定かではない。この部分については、今後の現地調査によって明らかにしていきたい。
既に明らかであることは、両国ともに主としてオランダを中心とするヨーロッパから写真技術および写真文化が流入し、自国文化に合わせて受け入れていったという点である。
統治国であるオランダからインドネシアに写真が伝えられたのは当然のことと言えるが、日本にもオランダから「写真」が伝えられているのである。それは、当時の日本が鎖国下であり、長崎にやって来るオランダ船から国外の新しい知識や文化、情報の多くを得ていたためである。1770(明和7)年前後に、カメラの原型である「どんくるかあむる」(オランダ語:Donker Kamer、一般的にはカメラオブスキュラCamera obscura として知られている)がオランダ船から輸入され、写真機や写真技術もまたオランダから渡来することになる。初めて写真機を輸入したのは、日本写真の先駆者である上野彦馬(1838-1904)の父上野俊之丞常足(1790-1851)である。上野俊之丞常足が「ダゲレオタイプ用の写真機「ダゲレオテイープ」一揃い」をオランダ船から1848(嘉永元)年に輸入した記録が残されている。
余談になるが、日本の鎖国当時、オランダから長崎へ多くの情報や文化が流入しているわけだが、日本を訪れる前にオランダ船はインドネシアにも寄港している。つまり、日本には知らず知らずのうちに、オランダのみならずインドネシアの文化も伝えられていたのである。例えば、籐を編んで作られた椅子などが当時の長崎では使用されているが、それらはインドネシアの伝統工芸品である。インドネシアと日本の関係性は、第二次世界大戦中の侵略統治という印象が強いが、そのはるか以前から両国の関係は始まっていたのである。
2.戦前におけるインドネシアと日本の写真交流
日本とインドネシアの関係は、前述の通り鎖国時代からつながっているわけであるが、日本人がインドネシアに渡るのは1900(明治33)年前後になってからのことである。まずは女性が現地での商売を目的に渡り、その後商業を目的に日本企業がインドネシアに参入している。
文化人類学・民族学者である青木澄夫は、その時代に日本人が制作・販売した写真絵葉書の調査を行っている。その成果は、著書『日本人が見た100年前のインドネシア 日本人社会と写真絵葉書』(The Daily Jakarta SHIMBUN, 2017)にまとめられており、戦時体制前の貴重なインドネシアの情景を写した写真が多数掲載されている。青木が掲載している写真絵葉書からは、当時多くの日本人写真館がインドネシアで営業していたことが分かる。さらに、ジャガタラ友の会が1987(昭和62)年に刊行した『写真で綴る蘭印生活半世紀−戦前期インドネシアの日本人社会−』を確認すると、写真館が多くあっただけではなく、多くの場面でインドネシアに居留していた日本人たちが写真撮影を行い、記録していたことがよく分かる。これらの写真からは、戦後の体験記などで語られる戦中の非人道的な行為とは全く異なる文化的な交流が育まれていたことを看取することができる。特にスポーツ大会の集合写真〔2〕などでは、国を越えてジャワ人、中国人、オランダ人、日本人の選手が並んでおり、スポーツや様々な行事の中で、豊かな友好関係が育まれていたことが伝わってくる。しかしながら、1938(昭和13)年に撮影されたインドネシアにおける日本人小学生たちの習字作品の写真〔3〕には、「祈武運長久」「勝つて歸れ」「至誠奉公」などと書かれており、当時が日中戦争下であったという事実がうかがわれる。
また、関連して、青木は本研究プロジェクトでも調査対象としているインドネシアで発行された最初の邦字新聞『爪哇日報』(1920年創刊)も調査しており、以下のように記している。
「(前略)『爪哇日報』が現在大変な危機に陥っている。100年近く経とうとする古新聞は変色し、劣化が著しい。多数の研究者が触れたであろう創刊号は、びりびりに破かれ、元の面影を全く残していない。既に創刊号から数号は読むに堪えない状況になり、他の日の新聞も破れが目立ち、すべてが無に帰す日も近いのではないかと危惧している。現在、インドネシア国立図書館でも電子化作業が進んでいるようだが、日本語文献の優先順位は必ずしも高くはないだろう。『爪哇日報』は、日本とインドネシアの近現代史や先人たちの思いを解きあかすための一つの大きなカギである。インドネシアが大切に守ってきてくれた財産を、後世に残すのは日本人の責務ではないだろうか。」〔4〕
本研究プロジェクトでもインドネシア国立図書館において同資料を確認したが、青木が指摘する通り、劣化がかなり進んでおり、保存状態の改善・整理とともに複写によるデジタルデータの作成が急務であると痛感している。
3.『アサヒグラフ』を調査対象とする理由
本調査では以下に述べる理由から調査対象を『アサヒグラフ』とした。『アサヒグラフ』は、当時において有名なグラフ雑誌であったと研究者たちも認識しているが〔5〕、調査研究の対象となることは少なかった。戦時期における写真を活用したメディアとしては、多くの場合『写真週報』が対象になってきたと言える。玉井清による『『写真週報』とその時代(上) −戦時日本の国民生活』及び『『写真週報』とその時代(下)−戦後日本の国防・対外意識』(いずれも慶應義塾大学出版会株式会社, 2017)や、『「写真週報」に見る戦時下の日本』(保阪正康(監修),太平洋戦争研究会(著),株式会社世界文化社,2011)など、2010年代になってから『写真週報』を調査対象とした研究成果は次々と発表されている。
『写真週報』は1938(昭和13)年2月16日から1945(昭和20)年7月11日までの期間、内閣情報部によって編集・発行された刊行物である。保阪は『写真週報』の位置付けを、日中戦争開始から7ヶ月が経過し、国家総動員法制定の時期に「国民に「聖戦完遂」の士気を鼓舞するための国からのメディア」〔6〕であったとしている。この明確な位置付けと適度な刊行期間が、戦時期におけるメディアの在り方や内閣情報部を分析研究することに適しているのである。これが『写真週報』研究の深化に通じていると考えることが出来る。
また、写真分野から見ても『写真週報』は研究対象となり易い。なぜならば、その制作を通じて次世代の代表的な写真家が育成されているからである。保阪も指摘していることだが、「情報部の委託を受ける形で、木村伊兵衛、土門拳といった有能な写真家たちがこのメディアを通じて育っていくことになった」〔7〕のである。木村伊兵衛(1901-1974)や土門拳(1909-1990)は、戦後においてリアリズム写真という写真界の主流を牽引することになる写真家であり、いずれも後に木村伊兵衛賞〔8〕や土門拳賞〔9〕など冠になるほどの写真家である。写真史は写真家を中心に表現史として編まれることが多いが、木村や土門はそこに欠かせない人物であり、その生涯を研究する中でも『写真週報』は登場するため研究対象となりやすいのである。
対して、『アサヒグラフ』は、その刊行期間が1923(大正13)年から2000(平成12)年と非常に長い。また、その内容も報道から文化的な特集記事まで多岐に渡る。加えて『アサヒグラフ海外版』も1943(大正32)年12月に創刊され、1952(大正41)年10月まで発行されている〔10〕。『アサヒグラフ』は多様な側面と存在意義をもっており、戦時期におけるメディア研究としては注目を浴びてこなかったと言える。また、写真分野においても著名な写真家を育てたメディアでなかったこともあり、研究対象となる機会を逃してきたと言える。
先行研究としては、『アサヒグラフ海外版』について井上祐子が著書『戦時グラフ雑誌の宣伝戦 十五年戦争下の「日本」イメージ』(株式会社青弓社,2009)の中で分析結果を報告している。井上は『アサヒグラフ』と『アサヒグラフ海外版』の関係性について以下のように述べている。
「「アサヒグラフ」では国内版と海外版で多少ズレがあるものの、両者ともに、労働者層や細民層も彼らなりに満足のいく生活をしていると伝えることに主眼がおかれている。それは、国内だけでなく、朝鮮や台湾などの植民地の人々を取り上げたものでも同じである。(中略)このように、底辺層・周辺層の人々の暮らしを取り上げた「アサヒグラフ」と「アサヒグラフ海外版」の記事は、基本的には現状を問題視する視点からではなく、現状肯定的な視点から構成されている。さらにいえば、行政あるいは企業を擁護する向きもあり、特に「海外版」ではその傾向が強く、日本を美化する側面をもっていたといえるだろう。
しかしながら、写真はスラム街や劣悪な環境の作業現場をそのまま写し出しており、現実の現場を美化しているわけではない。したがって、これらの記事も、企業や行政の美化の物語に回収されてしまうことはなく、そこにある問題を記録し、伝える側面を残していた」〔11〕
井上は、『アサヒグラフ海外版』には日本を擁護する内容も多くあったが、『アサヒグラフ』『アサヒグラフ海外版』ともに庶民の生活を取材・掲載しており、当時のリアルな状態を伝える役割も果たしていたと位置付けているのである。
では、何故、本調査では『アサヒグラフ』に着目したかというと、その理由は二点ある。
ひとつには本研究プロジェクトが戦時期におけるインドネシアと日本の関係性のみを探求するものではなく、1900年前後から現在に至るまでの相互における影響を知るべく調査を行っているためである。つまり、戦時中にのみ刊行された写真関連資料から戦時中における両国の関係性を調査するのではなく、戦前から戦後まで刊行が継続されていた資料を対象とすることで、戦前・戦中・戦後を通した関係性を知る基盤となることを想定したためである。
二点目としては、朝日新聞社が『朝日新聞』は無論のこと、『アサヒグラフ』『アサヒカメラ』そして、現地では『ジャワ新聞』『ボルネオ新聞』『ジャワ・バルー』など写真を活用した多くの刊行物を発行していたことにある。写真分野における研究では撮影者の特定や、写真作品の傾向分析などを行うが、多数の刊行物を保有していた朝日新聞社が発行するグラフ誌を調査対象とすることで、一種類の刊行物からだけでは見えてこない情報を今後、さらに調査研究を深めることで他誌紙から得られる可能性を感じているためである。
つまり、これまでは歴史研究の中で『写真週報』が研究対象となり、もしくは戦時中における日本の対外政策として『アサヒグラフ海外版』もしくは『NIPPON』『FRONT』などが注目されてきたわけであるが、あくまで本調査においては、「日本が占領地をどのように日本国内に見せていたか」もしくは「日本がインドネシアに身を置く日本人にどのように日本を見せようとしたのか」、そして「それらの写真は誰が撮影したのか」という視点から写真を分析していきたいという考えである。
4.『アサヒグラフ』について
『アサヒグラフ』は1923(大正12)年1月に日刊写真新聞として創刊された。井上がすでに指摘〔12〕していることであるが、『アサヒグラフ』の内容が本格的なフォト・ジャーナリズムになるのは関東大震災以後のことである。創刊と同年9月1日に起きた関東大震災による被害は甚大であり、東京朝日新聞社もまた壊滅的な被害を受けている。この被害により『アサヒグラフ』は、「大阪朝日新聞社がドイツから輸入したグラビア印刷機を利用して「アサヒグラフ」を印刷することになり、東京−大阪間の原稿のやりとりに時間がかかるようになった。このため「アサヒグラフ」は週刊になる」〔13〕のである。
日刊であればニュースの速報性に力を注ぐことになるが、週刊では速報性を求めることは難しく、日刊とは異なる魅力が必要となる。そのため、『アサヒグラフ』は、写真を活かした新たなメディアに改変する必要に迫られたわけである。
週刊となった『アサヒグラフ』創刊号の「編集室より」には、関東大震災による被害に触れ、精神的な意味における復興の重要性を説いた上で、以下のように記されている。
「(前略)乾き切った生活でなく、甘露の滴るやうなうるほひのある生活、それが第一の必要ではないでせうか。文藝も美術も演藝もその他文化生活に於て心の糧となり、魂の養ひとなるやうなものは悉く大きな打撃を受けてをります。眞の復興には尚前途があります。この秋に方つて週刊アサヒグラフが生まれましたのは、さうした精神的方面の心の糧をあなたの家庭に齎したいからであります。清く美しい寫眞が最も進歩した印刷藝術によつて先づ観る人の眼を楽しませます。それだけでも荒める人心を和らげる力があります。況してそれはただ美しいといふばかりでなく、必ず読者を益する多くの何物かが含まれてゐると信じます」〔14〕
この言葉は、1927(昭和2)年3月16日号まで編集長を務めた成沢玲川(成沢金兵衛,1877-1962)の言葉であろうと推察する。週刊となった『アサヒグラフ』は、関東大震災で損なわれた人々の心を救うような美しい写真を掲載し、読者の好奇心や興味関心を満たすような誌面をつくることを目的に再出発したわけである。また、週刊『アサヒグラフ』では創刊号から満州や台湾に関する記事が掲載されており、ごく初期から国外に目を向けていたことも看取できる。ここにインドネシアの話が加わることになるのは1938(昭和13)年であり、誌面の多くを割かれるようになるのは1942(昭和17)年になってからのことである。
5.『アサヒグラフ』に記名されたインドネシアを撮影した写真家について
ここでは、『アサヒグラフ』に掲載されたインドネシアの写真を撮影したのは誰なのかという視点から、1923(大正12)年の創刊号から1950(昭和25)年末までに発行された『アサヒグラフ』を調査した結果をまとめたい。
1926(大正15)年から1929(昭和4)年までの期間、誌面上では「グラフ記者写真班総出」と銘打った企画が連載されている。そこには「錦織嘉一、佐藤、大久保、渥美右一郎、小林、谷口、熊田年平、斎藤、靑雨、大久保好六、みのすけ、よしかつ、巳之助、藤本護」といった名前が記されている(誌面登場順、複数回登場する場合は初出位置に記す。以降の撮影者名列記も同じ)。姓名が掲載されている場合もあれば、あだ名のような明記もある。この企画からは、『アサヒグラフ』が創刊当時からしばらくの間、多くのグラフ記者を抱えていたことが分かる。1930年代後半までの誌面は、国内の文化的な記事や流行、観光名所を紹介する内容が多くを占める傾向にある。
日中戦争の内容など急激に戦時色が濃くなるのは、1937 (昭和12)年以降である。そして、インドネシアに関する記事が初めて誌面に登場するのは、1938(昭和13)年4月6日号(通常752号)のことである。ここでは「南海の宝島・ボルネオ・ルポルタージュ」という記事が掲載されている。写真撮影を担当しているのは朝日新聞記者ではなく「芸術映画社 八木仁平・坪内英二」である。芸術映画社は1943(昭和18)年に他社とともに合併し朝日映画社となるが、この時点では朝日新聞社とは別の組織である。この記事の題名が示す通り、インドネシアは日本国内とは異なる魅力をもった土地でありながら、同じアジア圏にある国として根底に流れる文化や思想は同じであるという位置付けで誌面に登場する。掲載される写真も、インドネシアの建造物や暮らし、食文化などを伝えるものが多く、微笑みを浮かべた人物なども多く掲載されている。
その後も、国外の記事は中国戦線に関する内容が主であるが、年に数回インドネシアに関する記事が掲載されるようになる。1939(昭和14)年から1941(昭和16)年の期間は「倉持博、風田川特派員、岡特派員」といった名前が撮影者として看取できる。1941(昭和16)年以降は海軍報道班からの写真提供も散見されるようになる。
1942(昭和17)年になるとインドネシアに関する記事が増加する。特に4 月以降急速に増加する傾向にある。この変化は南方総局創設の時期と一致する。「日本軍の南方作戦は一九四二年五月のビルマ制圧で完了〔15〕」し、「一九四二年七月一日に南方方面軍総司令部がサイゴンから昭南(シンガポール)に移ると、同盟は同月一四日、南方各支局を統括する南方総局を昭南に開設した」〔16〕という時期と合わせて誌面にインドネシアの情報が増加するのである。
この増加に合わせて、誌面では「岩津特派員撮影」という記名が多くなる。そのため、「岩
津特派員」は、1942(昭和17)年にインドネシアに派遣され、『アサヒグラフ』もしくは朝日新聞社のために現地で撮影を行っていたものと考えることが出来る。1942(昭和17)年にインドネシア関連記事で撮影者として明記されるのは以下の通りである。
「岩津特派員、友松特派員、米谷特派員、山端海軍報道班員、陸軍報道班員、島田特派員、西川特派員、松本特派員、南方軍報道班長 町田敬二、林特派員、小川特派員(海軍報道班員)、岩澤特派員、林特派員、谷村海軍報道班、風田川特派員、斎藤特派員、杉本特派員、望月海軍報道班員、池特派員、田中特派員、軍宣伝班、友松進」
明確に分類することは難しいが、インドネシアの街並みや景色、風土や文化を紹介する記事は特派員の撮影であり、軍事訓練の様子などは軍から提供されていると言うことが出来る。また、特派員の中にも軍報道班所属の撮影者もいる。掲載されている写真は、軍事訓練の写真であっても笑顔で写されている兵隊の写真が多く、軍が現地の人々に歓迎され、受け入れられている雰囲気を際立たせている。また、インドネシアの人々が日本文化を前向きに受容する様子を伝えるような写も多く、文章と合わせて非常に友好的な関係であることが伝わるように構成されている。
1943(昭和18)年になると「岩津本社特派員、菅野陸軍報道班員、宗友特派員(海軍報道班員)、丸山特派員、風田川特派員、有川特派員」といった名前が記載されているが、撮影者記名がない記事も増加してくる。7 月28日(通常1026号)の「“われらの父来る”ジャワでの東條首相」という記事には、「本社ジャカルタ支局撮影」と書かれており、誌面上に初めて「本社ジャカルタ支局」という名称が登場する。これは1942(昭和17)年から本格的に南方でのメディア政策が行われ、その体制が整ってきたことを示している。また、8月になると「ジャワ新聞写真部」撮影の記事も登場する。『ジャワ新聞』と『アサヒグラフ』の関係性については後ほど記す。
1944(昭和19)年に入ると撮影者無記名の記事が急激に増加し、誌面は戦時色が一気に増していく。1944(昭和19)年の撮影者としては、「鈴木稔、灘部隊宣伝部報道係、上野特派員、大束特派員、原田磯夫、斎藤貞雄」という名前を挙げることが出来るのみである。
そして、1945(昭和20)年1月17日号(通常1101号) の「今週の話題 故郷へ錦を飾ったボルネオの郷土兵」(撮影・坪内菊三)を最後に、今回の調査で調べた1950(昭和25)年末までインドネシアに関する記事を見つけることは出来なかった。つまり、終戦とともにインドネシアの写真は掲載されなくなったのである。
このように、戦前から戦後までの『アサヒグラフ』を見ていくと、その写真は朝日新聞特派員、陸軍や海軍所属の特派員や報道班などによって撮影された写真が主として掲載され、『ジャワ新聞』によって撮影されたものなどが加えられたということが出来る。また、掲載量の増加に合わせて撮影者が無記名になるという傾向も看取された。写真の掲載量は戦時色が強まるほどに増え、あくまで日本人に対して、風土の違いを興味深く表現しながらインドネシアとの良好な関係を伝え、同じアジア人としての共感性を高める内容の文章と合わせて提示されたわけである。そして、終戦と合わせてインドネシアの写真は一切掲載されなくなるのである。
6.インドネシアにおける朝日新聞社
朝日新聞社では、インドネシア在住の日本人に向けた新聞やグラフ誌も制作している。そのひとつである『ジャワ新聞』は、1942(昭和17)年12月8日に創刊された日刊邦字新聞である。戦時のジャワにおける邦字新聞の始まりを見てみると、ジャワに向かう船中にまで遡ることになる。1941(昭和16)年12月に太平洋戦争が勃発すると、ジャワ派遣軍に宣伝班が設置された。そのジャワ派遣軍の中には、「新聞関係者、作家、漫画家ら三、四〇人が含まれ、ジャワに向かう船中ですでに赤道報という日刊小型の陣中新聞をつくっていた」〔17〕のである。このような起こりもあってか、『ジャワ新聞』の特色は次のように語られている。
「ジャワ新聞は、とくに当初は陣中新聞の性格が強かった。初代編輯部長飯島保は、一つの新聞を兵士が五、六人で囲んで読めるようにと、見出しも大きくし派手な紙面とした。戦局が明るく、大きく扱うのに適したものが多かったためでもある。記事は当然「聖戦完遂」的なものが大部分だが、現地の女性座談会や食糧事情などを語らせたり、現地人に対する軍の食糧増産供出運動に行きすぎのないよう遠回しに論じたり、熱帯の伝染病や風土病に対する保健上の注意をしたりなどの気配りのみられるものもすくなくなかった」〔18〕
つまり、『ジャワ新聞』は一人で読むものではなく、軍の中で囲んで読まれることを想定し、軍事情報だけではなく、彼らが派遣された土地の文化や注意すべき点が分かる内容にしようと試みられていたのである。
無論、『ジャワ新聞』は戦時下における邦字新聞の起こりであり、インドネシアでは、それ以前から邦字新聞は発行されていた。例えば前述の『爪哇日報』や『日蘭商業新聞』、二社が合併した『東印度日報』などが該当する。共同通信社に勤め同盟通信社に関する研究を行っている鳥居英晴は、著書の中で『東印度日報』について、「社長が斎藤正雄、主筆が谷口五郎。谷口は朝日新聞の通信員も兼ねていた」〔19〕と記している。ここで注目すべきは、『東印度日報』の谷口が朝日新聞社通信員でもあったということである。谷口のように国策として主要通信社・新聞社が動き出す以前から、商業的理由からインドネシアに身を移していた報道関係者は少なくなかったと予想される。彼らの活動については今後調査を行っていきたい。
『改訂縮刷決定版 秘録大東亜戦史 全6巻 第5回配本 比島蘭印篇』(池田佑(編),株式会社富士書苑,1954)には、通信社・新聞社社員という立場で南方と関わった関係者の体験記が語られている。谷口もここで自身の経験を語っている。例えば様々な研究論文の中では、各社が南方のどのエリアで新聞を発行することになったかについて列記で述べているが、谷口は当事者の視点から、朝日新聞社がジャワにおける新聞発行を委託された理由をこのように記している。
「陣中紙が活字の不足に悩んでいたとき、村山朝日新聞社長がジャワに視察に来た。『陣中新聞が活字にこまっている』という話を聞いて帰ったが、それから間もなく朝日機でジャワ軍司令部に対して、日本活字に使用する完全な字母と鋳造機が寄贈された。こうした新聞に対する朝日の誠意が大きく評価されて、当時の今村均司令官は、ジャワ地区における邦人新聞の委託経営権を朝日新聞に与えることを決意した、というのが朝日のジャワ進出の真相である。」〔20〕
担当区域が列記されただけの文章では伝わりづらい、人間関係や日本から離れた地において新聞をつくることに対する想いが感じられる文章である。のちに歴史に列記される決定事項の要因は、このような人間関係やささいな出来事がきっかけであることも多い。しかし、それは非常に見えづらいものである。このような事柄は、関係者個人の調査を深めることで見えてくることであり、撮影者の特定以降に実施したい調査である。ちなみに、谷口は1943(昭和18)年2月3日に組織されたジャワ新聞会の事務局長〔21〕も務めている。
ジャワ新聞社は、『ジャワ新聞』の他に宣伝 用小型グラフ雑誌『ジャワ・バルー』を、月に2回発行していた。『ジャワ・バルー』の写真については、「「ジャワ・バルー」は写真が主で、「アサヒグラフ」「太陽」と提携、写真を交換した」〔22〕とされている。つまり、『アサヒグラフ』の中で、「ジャワ新聞写真部」と記載されていた写真は、おそらく『ジャワ・バルー』のために撮影された写真であるということである。これと同様に、朝日新聞社が発行する新聞やグラフ誌などでは写真や記事の提携・連携が他にもあったものと推察できる。これについても今後、調査を行っていきたい。
また、朝日新聞社は海軍の委託を受けて、ボルネオ・バンジャルマシンにもボルネオ新聞本社を設置し、『ボルネオ新聞』を発行している〔23〕。ボルネオ新聞社の設置に関連して、「ジャワでは、ジャワ新聞社員がジャカルタ、バンドンなどの朝日新聞支局員を兼ねることに、当初、現地軍は難色を示したが、ボルネオでは、朝日支局員兼ボルネオ新聞社員でさしつかえなし、と現地軍が簡単に了解した」〔24〕との記載が残されており、朝日新聞社の現地記者が『ジャワ新聞』や『ボルネオ新聞』でも活躍していたことが分かる。つまり、誌名や誌面は違うが、同じ写真が様々な媒体に掲載されている可能性が高いのである。これについては今後、比較調査を行いたいと考えている。
このように見ると、『アサヒグラフ』を始めとする朝日新聞社が関わった刊行物の写真は、前述の通り派遣された朝日新聞社の記者、そして陸海軍報道班による撮影であるということになる。ここで一点疑問が浮かぶ。戦前に日本から渡っていた写真館館主である写真家たちが戦時協力として、写真を撮影し掲載すること、もしくは彼らが販売していたインドネシアの風土などが伝わる写真を、朝日新聞社に提供することは無かったのであろうか。調査の結果を鑑み「無かった」と仮定する場合、推測できる理由は二点ある。一つは、写真館主には要請しなかった場合、もう一方は、その時期すでに日本人写真館関係者は帰国していたという場合である。これについて、青木は次のように記している。
「1930年代になると、日本政府や日本軍との関係を疑われ、写真絵葉書に名前を記すことをやめた写真師も多かった。日本がオランダ領の領土や資源に関心を求めると、写真師の中には実際に協力者として利用された人たちもいたようだ。オランダ領東インド政庁は、日本人写真師をmatamata(スパイ)として捉え、また一般市民の多くも、オマル・ヤディさんが言うように、日本政府の派遣と考えていた。しかし、これらの写真師や絵葉書を作成した写真師や商店主は、日本政府の庇護のないまま、インドネシアに働きに来て、ほとんどが無資本・小資本から立ち上げた普通の一般市民だった。そのため、自ら記録を残すこともなく、また記録される存在でもなかった。彼らは、第二次世界大戦の開戦とともに財産を残して帰国を余儀なくされ、その後の消息は、ほとんどわからない」〔25〕
つまり、青木の分析によると写真館主たちは、戦時色が濃くなるにつれてスパイ容疑をかけられるようになり、追われるように第二次世界大戦開戦とともに帰国したということである。そうであったならば、戦前からインドネシアに滞在し、人間関係や土地勘など凡ゆる点において有利であったはずの彼らが撮影協力者になり得なかった理由が納得できる。
このように論じていくと、朝日新聞社の写真記者たちがあくまで業務の一環として各地に派遣され撮影を行ったように読み解けてしまう。そこに個人の存在を感じ取ることは難しく、「朝日新聞記者」というぼんやりとした像しか浮かび上がってこない。例えば、本調査では「岩津特派員」がインドネシアに派遣され、写真を多く撮影したことは分かったが、その人柄や現地の人たちとのコミュニケーションの様子が分かるような段階にまでは至れていない。
戦時下における写真分析の難しさは、このような点にもある。圧倒的に無記名の写真が多く、もしくは組織名のみで発表されることが多かったため、その裏側に潜む撮影者の人間性や心理、人間関係を詳らかにすることが難しく、客観的かつ冷淡な分析にとどまってしまうのである。特にひとりの写真家ではなく、組織に所属していた報道部員と呼ばれる写真家の存在は記録に残りづらく、組織における1コマとして淡々と語られてしまいがちである。
しかし、彼らは無論のことながら一人の感情をもつ人間としてインドネシアに渡っているのである。報道部員の言葉はあまり多く語れることはないが、その一端を示すものとして朝日新聞社の河合政の言葉がある。
「報道員にももちろん暴力騒動があった。英印軍が進駐してもジャワ新聞は発行をつづけていた。進駐軍の一部隊がジャカルタ市内を行進した日だ。私がこの場面を写真で入れるべく、写真部に依頼すると間もなく、カメラマンとしてもっとも若いAが、血相変えてやって来て、「写真がほしいなら自分でやってみたらいい。うっかりカメラを向けて、ボーンとうたれたら誰が責任を持つんですか。バカバカしい、そんな仕事はごめんだ」といった」〔26〕
このような出来事からは、様々な誌面に掲載された写真が機械によって無機質に撮影されたものではなく、カメラを構えた血の通った人間が撮影したことによって得られた写真であるということが伝わる。
今後、撮影者個人を特定し、その輪郭線をはっきりさせていくためには、『アサヒグラフ』もしくは朝日新聞社に限らず、当時、どのような日本人がインドネシアの地でカメラを構え、何を目的として写真を撮影していたのかをより深く調査していく必要がある。それにより、撮影者個人個人について分析し、彼らの撮影に対する熱量、もしくはその背景を詳らかにすることで、ようやく当時のインドネシアと日本の写真を媒介した関係性や、インドネシアに身を置いていた日本人が同じ日本人に何を届けようとしたのかを理解することができると考えている。
おわりに
本論では、インドネシアと日本の「写真」のはじまりや関係性、そして『アサヒグラフ』におけるインドネシア関連の記事における撮影者に関する事柄について述べてきた。調査は初期段階であり、今後さらに調査を深めていく必要を痛感する結果となった。
『アサヒグラフ』に掲載された写真からは、インドネシアは日本とは異なる魅惑の地でありながら、同じアジアという根底を流れる共通点がある国として読者である日本人に情報を届けていることが分かったが、これは通説通りの傾向であり、新たな知見ではない。また、『アサヒグラフ』には1938(昭和13)年からインドネシア関係の記事が掲載されるようになっていたが、それはすでに戦時色を保有した記事であり、さらには終戦とともに掲載記事は無くなってしまった。そのため、『アサヒグラフ』のみの調査では戦前から現在に至るまでの基盤となるような両国間の流れをつかむことは叶わなかった。これについては、戦前・戦中・戦後を分断することなく調査できる新たな方法の検討が必要である。このためには、国の政策によって表出の仕方が大きく変わるメディアではなく、撮影者個人を研究対象と出来る段階まで掘り下げていく必要があると感じている。
以上を踏まえて、今後は特に以下の二点について調査を深めていきたい。
一点目は朝日新聞社についての調査である。本調査の中では『アサヒグラフ』記載の撮影者情報を、まずは拾い上げることを行った。しかし、戦時色が濃くなるほどに無記名記事が増え、撮影者の特定は困難であった。朝日新聞社では戦時中多くの刊行物を発行している。それらを比較分析することと合わせて当時の組織について調査を深めることで、如何にして写真が撮影され、共有され、掲載に至ったのかをより具体的にしていきたい。また、撮影者特定が難しい場合には、写真分野におけるアノニマスな写真に対する評価を検討する必要もあると言える。
二点目は、本来であれば今年度において試みたかった『爪哇日報』の整理及び複写によるデジタルデータの作成である。史料保存という意味も無論あるが、インドネシアにおいて当時『爪哇日報』はどのように扱われていたのか、『爪哇日報』の内容を理解した上で同じニュースをインドネシア人向けの他紙はどのように報道したのか、そこに用いられた写真に差異はあるのかを調査したいのである。
今年度は国内で調査できる内容に研究が限られてしまったが、インドネシアと日本という両国の視点をもち、調査を行うことに本研究プロジェクトの意味があると考えている。つまり、日本からインドネシアを一方的に分析・解釈するのではなく、インドネシア国内でその時代がどのように捉えられ語られているかを知り、同じ事柄に対する見え方、伝え方や受け取り方の相違とその理由を明確にすることに意義があるのではないだろうか。
そして、その中で写真が如何に活用されたかを調査し、人間性や文化を見出していくことが本研究プロジェクトにおける研究者の役割と考えている。
<主要参考文献> (著者アルファベット順)
青木澄夫(著)パジャジャラン大学文化科学部日本語研究センター(協力・翻訳)2017『日本人が見た100年前のインドネシア 日本人社会と写真絵葉書』The Daily Jakarta SHIMBUN
朝日新聞百年史編修委員会(編)1995『朝日新聞社史 大正・昭和戦前編 大正元年(1912年)〜昭和20年(1945年)』朝日新聞社
池田佑(編)1954『改訂縮刷決定版 秘録大東亜戦史 全6巻 第5回配本 比島蘭印篇』株式会社富士書苑
井上祐子2009『戦時グラフ雑誌の宣伝戦 十五年戦争下の「日本」イメージ』株式会社青弓社
ジャガタラ友の会1987『写真で綴る蘭印生活半世紀−戦前期インドネシアの日本人社会−』ジャガタラ友の会
里見脩2000『ニュース・エージェンシー』中央公論新社
玉井清(編著)2017『『写真週報』とその時代(上)−戦時日本の国民生活』慶應義塾大学出版会株式会社
玉井清(編著)2017『『写真週報』とその時代(下)−戦後日本の国防・対外意識』慶應義塾大学出版会株式会社
鳥居英晴2014『国策通信社『同盟』の興亡−通信記者と戦争』花伝社
財団法人通信社史刊行会(編)1958『通信社史』通信社史刊行会
Zhuang Wubin2016『PHOTOGRAPHY IN SOUTHEAST ASIA:A Survey』NUS Press
註釈
〔1〕Zhuang Wubin 2016『PHOTOGRAPHY IN SOUTHEAST ASIA:A Survey』NUS Press p67
〔2〕ジャガタラ友の会1987『写真で綴る蘭印生活半世紀−戦前期インドネシアの日本人社会−』ジャガタラ友の会 p177
〔3〕ジャガタラ友の会1987『写真で綴る蘭印生活半世紀−戦前期インドネシアの日本人社会−』ジャガタラ友の会 p149
〔4〕青木澄夫(著) パジャジャラン大学文化科学部日本語研究センター(協力・翻訳)2017『日本人が見た100年前のインドネシア 日本人社会と写真絵葉書』The Daily Jakarta SHIMBUN p14
〔5〕玉井清2017『『写真週報』とその時代(下) −戦後日本の国防・対外意識』慶應義塾大学出版会株式会社 p330
〔6〕保阪正康2011『「写真週報」に見る戦時下の日本』株式会社世界文化社p4
〔7〕保阪正康2011『「写真週報」に見る戦時下の日本』株式会社世界文化社p5
〔8〕1975年に朝日新聞社によって創設された賞。プロ・アマ問わず写真の制作活動において優れた成果をあげた新人に授与される。「写真界の芥川賞」とも言われる。
〔9〕1981年に毎日新聞社が創設した写真賞。木村伊兵衛賞に対して「写真界の直木賞」と位置付けられている。
〔10〕1943年『ASAHIGRAPH OVERSEAS EDITION』として創刊。1944年9 月『JAPAN IN PICTURES』と改題、さらに1950年6 月には『THE PICTORIAL ORIENT』と改題されている。
〔11〕井上祐子2009「第2章 対外向けグラフ雑誌事始め−第一期:柳条湖事件の勃発−一九三四年末」『戦時グラフ雑誌の宣伝戦 十五年戦争下の「日本」イメージ』株式会社青弓社p67
〔12〕井上祐子2009「第1 章「報道写真」とグラフ雑誌の黎明」『戦時グラフ雑誌の宣伝戦 十五年戦争下の「日本」イメージ』株式会社青弓社p23
〔13〕井上祐子2009「第1 章「報道写真」とグラフ雑誌の黎明」『戦時グラフ雑誌の宣伝戦 十五年戦争下の「日本」イメージ』株式会社青弓社p23
〔14〕「 編集室より」『アサヒグラフ』朝日新聞社 1923.11.14 p21
〔15〕鳥居英晴2014「第11章 メディアの「大東亜共栄圏」「第三部 アジア太平洋戦争下の同盟」『国策通信社『同盟』の興亡 −通信記者と戦争』花伝社 p534
〔16〕鳥居英晴2014「第11章 メディアの「大東亜共栄圏」「第三部 アジア太平洋戦争下の同盟」『国策通信社『同盟』の興亡 −通信記者と戦争』花伝社 p534
〔17〕鳥居英晴2014「第11章 メディアの「大東亜共栄圏」「第三部 アジア太平洋戦争下の同盟」『国策通信社『同盟』の興亡 −通信記者と戦争』花伝社 p548
〔18〕朝日新聞百年史編修委員会(編)1995「第9章 総力戦に協力」『朝日新聞社史 大正・昭和戦前編 大正元年(1912年)〜昭和20年(1945年)』朝日新聞社 p619
〔19〕鳥居英晴2014「第11章 メディアの「大東亜共栄圏」「第三部 アジア太平洋戦争下の同盟」『国策通信社『同盟』の興亡 −通信記者と戦争』花伝社 p549
〔20〕谷口五郎「ペンに倚りて−ジャワ新聞の足跡」『改訂縮刷決定版 秘録大東亜戦史 全6巻 第5回配本 比島蘭印篇』(池田佑(編) 株式会社富士書苑1954年9月25年発行)p449
〔21〕鳥居英晴2014「第11章 メディアの「大東亜共栄圏」「第三部 アジア太平洋戦争下の同盟」『国策通信社『同盟』の興亡 −通信記者と戦争』花伝社 pp550-551
〔22〕朝日新聞百年史編修委員会(編)1995「第9章 総力戦に協力」『朝日新聞社史 大正・昭和戦前編 大正元年(1912年)〜昭和20年(1945年)』朝日新聞社 p619
〔23〕鳥居英晴2014「第11章 メディアの「大東亜共栄圏」「第三部 アジア太平洋戦争下の同盟」『国策通信社『同盟』の興亡 −通信記者と戦争』花伝社 pp551-552
「 ボルネオ新聞は、カリマンタン・ラヤを接収し、一九四二年一二月八日、創刊された。日本語マレー語各一頁。朝日新聞からは理事下井宏之はじめ二十余人が派遣された」
〔24〕 朝日新聞百年史編修委員会(編)1995「第9章 総力戦に協力」『朝日新聞社史 大正・昭和戦前編 大正元年(1912年)〜昭和20年(1945年)』朝日新聞社 p623
〔25〕青木澄夫(著) パジャジャラン大学文化科学部日本語研究センター(協力・翻訳)2017『日本人が見た100年前のインドネシア 日本人社会と写真絵葉書』The Daily Jakarta SHIMBUN p86
〔26〕 河合政「ジャワの日本人」1954『改訂縮刷決定版 秘録大東亜戦史 全6巻 第5回配本 比島蘭印篇』株式会社富士書苑p345
Sebuah Studi Fotografi Jepang di Indonesia Berfokus pada Asahi Graph (Dimasukkan Dalam ‘Laporan dan Makalah’)
Oleh : TORIUMI SAKI (Dosen Jurusan Fotografi-Fakultas Seni, Nihon University)
Pendahuluan
Pada proyek penelitian ini, penulis sedang melakukan penelusuran tentang hubungan Jepang dan Indonesia melalui “fotografi”. Makalah ini akan mengulas hubungan fotografi Indonesia dan Jepang, dengan memusatkan investigasi pada para juru foto dari artikel-artikel yang berkaitan dengan Indonesia yang dimuat dalam ‘Asahi Graph’.
Terdapat sedikit penelitian-penelitian sebelumnya tentang fotografi Indonesia dan Jepang. Penelitian-penelitian yang ada dapat dikatakan terbatas pada riset-riset kartu pos bergambar, yang akan dibahas kemudian, atau kajian-kajian media dari prespektif “bagaimana foto digunakan untuk menampilkan Jepang kepada dunia luar” dalam propaganda-propaganda nasional di masa perang. Setelah menjelaskan interaksi antara Jepang dan Indonesia melalui fotografi yang berlangsung dari masa sebelum perang, di makalah ini akan dilakukan analisis terhadap ‘Asahi Graph’ dari sudut pandang “bagaimana Jepang hendak menampilkan wilayah-wilayah pendudukannya kepada publik dalam negeri Jepang” dan “siapa yang mengambil foto-foto tersebut”, dan dari situ akan makin diperjelas pokok-pokok permasalahan kajian analisis foto dalam masa perang.
1. Sejarah Awal Fotografi Indonesia dan Jepang
Sejarah fotografi awal Indonesia tidak banyak diketahui di Jepang. Disini akan disajikan sejarah singkat dari ‘ PHOTOGRAPHY IN SOUTHEAST ASIA : A Survey’ (Zhuang Wubin, NUS Press) yang diterbitkan pada tahun 2016. Pada tahun 1839 ketika untuk pertama kalinya teknik fotografi Daguerreotype diperkenalkan secara resmi di Perancis, dalam waktu sekejap “fotografi” menyebar ke seluruh dunia. Dari sekitar tahun 1840 “fotografi” juga turut disebarkan oleh fotografer-fotografer Eropa terutama para fotografer Belanda, yang merupakan negara penguasa saat itu. Para fotografer Eropa ini mengambil gambar-gambar foto Indonesia, dan dengan teknik dan budaya pengambilan foto yang mereka ajarkan kepada orang-orang Indonesia, makin membuat penyebaran “fotografi” meluas ke seluruh negeri Indonesia.
Kassian Cēphas (1845-1912), yang mempelajari fotografi pada tahun 1860-an dan pada tahun 1871 menjadi juru gambar dan fotografer Kesultanan Yogyakarta, diposisikan sebagai fotografer paling awal di Indonesia (Jawa). Setelah itu sekitar tahun 1900, mulai muncul dan berkembang studio-studio foto dengan fotografer-fotografer dari golongan Tionghoa. Pada tahun 1924, dengan diprakarsai terutama oleh orang-orang Tionghoa, Preanger Amateur Fotografen Vereniging, suatu perkumpulan fotografi tertua yang masih ada, didirikan di Bandung. Dalam bidang jurnalisme, mendapatkan pengaruh kuat dari barang-barang cetak publikasi Belanda, turut berkembang pada tahun 1920-an.
Dalam perihal ini nama Jepang muncul pertama kali saat terjadinya Perang Dunia II [1]. Disebutkan bahwa sebuah kantor berita bernama The Antara News Agency yang didirikan di Batavia pada tahun 1937, dilebur kedalam “Domei”. Tentu yang dimaksud “Domei” di sini adalah perusahaan Kantor Berita Domei. Pada tahun 1944 juga dilaporkan bahwa tujuh orang pemuda dari berbagai daerah di Jawa direkrut oleh “Domei” dan mendapatkan pelatihan fotografi.
Seperti akan dijelaskan di bawah ini, dari sekitar tahun 1900 orang Jepang melakukan perjalanan ke Indonesia untuk tujuan berdagang, juga untuk menjalankan studio-studio foto di berbagai wilayah Indonesia. Oleh sebab itu sulit dipercaya bahwa dunia fotografi Jepang dan Indonesia sampai jaman perang sama sekali tidak ada hubungan, dan bisa saja ada kemungkinan teknik dan gaya fotografi kedua negara secara timbal balik saling mempengaruhi, namun ini sulit untuk dipastikan. Mengenai bagian ini, akan dicari jawabannya di waktu mendatang dengan mengadakan penelitian lapangan di Indonesia.
Satu hal yang sudah pasti adalah teknik dan budaya fotografi yang mengalir masuk di kedua negara berasal dari Eropa terutama Belanda, diterima dan disesuaikan dengan kebudayaan negeri sendiri.
Dapat dikatakan wajar fotografi di Indonesia diperkenalkan dari Belanda yang merupakan negara penguasa, tetapi “fotografi” masuk ke Jepang juga diperkenalkan dari Belanda. Hal ini dikarenakan Jepang yang pada masa itu sedang menjalankan politik penutupan negeri (sakoku), memperoleh banyak pengetahuan, budaya, dan informasi dari kapal-kapal Belanda yang datang ke Nagasaki. Sekitar tahun 1770, model kamera “Donkuru Kamuru” (bahasa Belanda: Donker Kamer) atau yang umum lebih dikenal sebagai Camera Obscura diimpor dari kapal-kapal Belanda, peralatan-peralatan dan teknik-teknik fotografi pun juga diperoleh dari Belanda. Orang pertama yang mengimpor peralatan fotografi adalah Ueno Toshinojo Tsunetari (1790–1851), ayah dari Ueno Hikoma yang merupakan seorang perintis fotografi Jepang. Terdapat catatan yang menyebutkan bahwa Ueno Toshinojo mengimpor seperangkat peralatan fotografi model Daguerreotype dari kapal Belanda di tahun 1848.
Sekedar tambahan saja, ketika Jepang menutup diri dari dunia luar, banyak informasi dan budaya dari Belanda yang mengalir masuk ke Nagasaki dibawa oleh kapal-kapal Belanda yang juga berlabuh di Indonesia sebelum mengunjungi Jepang. Dengan kata lain, tidak hanya budaya Belanda tetapi juga budaya Indonesia yang tanpa disadari turut diperkenalkan di Jepang. Misalnya, kursi dari anyaman rotan yang digunakan di Nagasaki pada waktu itu merupakan kerajinan tradisional Indonesia. Meski keterhubungan antara Indonesia dan Jepang memiliki kesan kuat berupa pemerintahan agresi militer selama Perang Dunia II, namun hubungan kedua negara telah dimulai jauh sebelum itu.
2. Interaksi Fotografi Indonesia Dan Jepang Masa Sebelum Perang
Seperti disebutkan sebelumnya bahwa hubungan antara Jepang dan Indonesia telah terjalin sejak masa isolasi nasional, namun baru sekitar tahun 1900 orang Jepang masuk ke Indonesia. Pertama yang datang ke Indonesia adalah kaum perempuan untuk tujuan berjualan, kemudian setelah itu barulah masuk perusahaan-perusahan Jepang ke Indonesia untuk tujuan bisnis perdagangan.
Sumio Aoki, seorang antropolog budaya dan etnolog, melakukan sebuah penelitian tentang kartu-kartu pos bergambar yang diproduksi dan dijual oleh orang Jepang pada masa itu. Hasil penelitian tersebut dirangkum di dalam buku “Indonesia 100 Tahun Yang Lalu Di Mata Orang Jepang, Komunitas Masyarakat Jepang dan Kartu-Kartu Pos Bergambar Foto” (Harian Jakarta SHIMBUN, 2017), memuat foto-foto penting dalam jumlah banyak yang merekam pemandangan keadaan Indonesia dalam tatanan masyarakat sebelum perang. Dari kartu-kartu pos bergambar foto yang dimuat oleh Aoki, dapat diketahui bahwa pada masa itu di Indonesia banyak studio foto yang dikelola oleh orang Jepang. Saat memeriksa lebih lanjut dalam buku “Setengah Abad Kehidupan Hindia Belanda Dalam Foto: Masyarakat Jepang di Indonesia Sebelum Perang” yang diterbitkan oleh Jagatara Tomo No Kai pada tahun 1987, didapati bahwa tidak hanya ada banyak studio foto, namun dapat diketahui dalam banyak fragmen foto terekam jelas orang-orang Jepang yang menetap di Indonesia melakukan pengambilan foto dan membuat dokumentasi. Dari foto-foto ini dapat dilihat terbinanya pertukaran kebudayaan yang berbeda-beda, yang sama sekali jauh berbeda dari tindakan-tindakan tidak manusiawi sewaktu perang seperti digambarkan dalam cerita-cerita pasca perang. Khususnya seperti dalam foto bersama di sebuah turnamen olah raga [2], atlet-atlet orang Jawa, Tioghoa, Belanda, dan Jepang dapat berdampingan melampaui batas-batas negara, menyampaikan terjalinnya suatu hubungan persahabatan yang akrab dalam kegiatan olah raga dan bermacam-macam acara. Akan tetapi dalam sebuah foto karya kaligrafi murid sekolah dasar Jepang di Indonesia yang diambil pada tahun 1938 [3], tertulis frase-frase kata seperti “Semoga Jaya Selalu Dalam Kemenangan”, “Pulang Dengan Kemenangan”, atau “Pengabdian Tulus”, yang menunjukkan realita bahwa saat itu sedang berkecamuk Perang Jepang Cina.
Sehubungan dengan itu, Aoki juga meneliti surat kabar berbahasa Jepang pertama yang terbit di Indonesia, Java Nippo (terbit perdana pada tahun 1920), untuk dijadikan subyek dalam proyek penelitian utamanya, seperti yang tertulis dibawah ini.
“…’Java Nippo’ saat ini sedang berada dalam krisis serius. Surat kabar lama yang berusia hampir 100 tahun, berubah warna dan mengalami kerusakan parah. Edisi perdananya yang telah dipegang oleh banyak peneliti, robek tercabik-cabik, sama sekali tidak menyisakan tampilan seperti semula. Beberapa edisi dari terbitan pertama kondisinya sudah sangat susah untuk dibaca, surat-surat kabar Jepang lain juga sangat kentara robeknya, dan saya khawatir bahwa hari dimana semua kembali kedalam ketiadaan akan semakin dekat. Saat ini di Perpustakaan Nasional Indonesia nampaknya juga sedang dilakukan pekerjaan digitalisasi, namun literatur-literatur dalam bahasa Jepang belum tentu berada di urutan prioritas yang teratas. ‘Java Nippo’ adalah salah satu kunci untuk membuka sejarah modern Jepang dan Indonesia, dan pemikiran-pemikiran manusia terdahulu. Tidak kah ini menjadi tanggung jawab bangsa Jepang untuk mewariskan harta pusaka yang telah dijaga dan dijunjung tinggi oleh Indonesia untuk generasi mendatang”.[4]
Pada proyek penelitian ini juga, saya telah memeriksa bahan-bahan yang sama di Perpustakaan Nasional Indonesia, namun seperti yang ditunjukkan oleh Aoki, kerusakannya sudah sangat parah. Selain pembenahan dan penataan kondisi penyimpanan, saya rasa perlu segera untuk dilakukan penyusunan data digital lewat penduplikasian.
3. Alasan Meneliti “Asahi Graf “
‘Asahi Graph’ dijadikan sebagai subyek penelitian karena beberapa alasan dibawah ini. Para peneliti juga menyadari bahwa “Asahi Graph” adalah majalah grafis yang terkenal pada saat itu [5], namun belum banyak dijadikan subyek penelitian. Sebagai media yang menggunakan fotografi di masa perang, ‘Shashin Shuho’ di dalam banyak kesempatan dapat dikatakan sering menjadi subyek penelitian. Dari mulai tahun 2010-an hasil penelitian tentang ‘Shashin Shuho’ satu demi satu telah dipublikasikan, seperti “‘Shashin Shuho’ dan Zaman Itu (Bagian 1) – Kehidupan Rakyat Jepang Di Masa Perang” dan “‘Shashin Shuho’ dan Zaman Itu (Bagian 2) – Pertahanan Jepang dan Kesadaran Akan Luar Negeri Pasca Perang” karya Tamai Kiyoshi (keduanya diterbitkan oleh Keio University Press, 2017), dan “Jepang Pada Masa Perang Dilihat Pada ‘Shashin Shuho’” (Hosaka Masayasu (Editor), Kelompok Penelitian Perang Pasifik (Penulis), Sekai Bunkasha, 2011).
‘Shashin Shuho’ adalah publikasi yang diedit dan diterbitkan oleh Biro Penerangan Kabinet dari tanggal 16 Februari 1938 hingga 11 Juli 1945. Hosaka menyatakan bahwa tujuh bulan berselang sejak mulainya Perang Jepang-Cina yaitu saat Undang-Undang Mobilisasi Nasional diberlakukan, ‘Shashin Shuho’ ditempatkan sebagai media dari Negara untuk meningkatkan semangat “rakyat” dalam “menunaikan perang suci”[6]. Kedudukan yang jelas dan durasi penerbitan yang cukup membuat ‘Shashin Shuho’ cocok digunakan untuk melakukan penelitian analitis media-media pada masa perang dan Biro Penerangan Kabinet. Hal-hal ini lah yang diperkirakan telah membuat penelitian ‘Shashin Shuho’ mengalami pendalaman.
Juga dilihat dari bidang fotografi pun ‘Shashin Shuho’ merupakan subjek yang mudah untuk diteliti, oleh karena lewat pembuatannya telah digembleng fotografer-fotografer yang mewakili generasi jaman berikutnya. Seperti yang ditunjukkan juga oleh Hosaka, “Dengan pola penugasan-penugasan yang diberikan oleh Departemen Penerangan Kabinet, para fotografer berbakat seperti Kimura Ihei dan Ken Domon dilatih melalui media ini” [7]. Kimura Ihei (1901-1974) dan Ken Domon (1909-1990) adalah fotografer-fotografer pelopor aliran fotografi realisme pada masa pasca perang, yang di kemudian hari nama keduanya dijadikan gelar penghargaan fotografi, Trofi Kimura Ihei[8] dan Trofi Domon Ken [9]. Sejarah fotografi sering disusun sebagai sejarah ekspresi yang berpusat pada diri sang fotografer, disini Kimura dan Domon merupakan figur-figur yang tidak tergantikan, dan dalam meneliti kisah perjalanan hidup mereka pun karena ‘Shashin Shuho’ sering muncul maka sangat mudah untuk dijadikan subyek penelitian.
Sebaliknya, ‘Asahi Graph’ memiliki periode publikasi yang sangat panjang, dari tahun 1923 hingga tahun 2000. Ditambah lagi isi ‘Asahi Graph’ juga beragam, mulai dari laporan-laporan berita hingga artikel-artikel khusus budaya. Selain itu pada Desember 1943 untuk pertama kali ‘Asahi Graph Edisi Luar Negeri’ juga dikeluarkan dan terbit hingga Oktober 1952 [10]. Dapat dikatakan ‘Asahi Graph’ yang memiliki aspek dan makna keberadaan bermacam-macam kurang mendapat perhatian sebagai sebuah penelitian media pada masa perang, dan kesempatan menjadi subyek penelitian juga terlewatkan karena juga bukan merupakan media yang melahirkan fotografer-fotografer ternama.
Dalam penelitian sebelumnya, Inoue Yuko melaporkan hasil analisis tentang ‘Asahi Graph Edisi Luar Negeri’ di dalam bukunya “Propaganda Majalah Grafis Masa Perang: Citra ‘Jepang’ Dalam Perang Lima Belas Tahun” (Seikyusha, 2009). Inoue menyebutkan hubungan antara ‘Asahi Graph’ dan ‘Asahi Graph Edisi Luar Negeri’ sebagai berikut dibawah ini.
“Meskipun edisi dalam negeri dan edisi luar negeri pada ‘Asahi Graph’ sedikit banyak terdapat perbedaan, namun fokus utama keduanya adalah mengabarkan bahwa kelas pekerja dan kaum miskin menjalani kehidupan yang memuaskan dengan caranya sendiri. Itu tidak hanya di dalam Jepang, tetapi sama juga pada artikel-artikel yang mengangkat orang-orang di wilayah-wilayah jajahan seperti Korea dan Taiwan. …Artikel-artikel dari ‘Asahi Graph’ dan ‘Asahi Graph Edisi Luar Negeri’ yang mengangkat kehidupan masyarakat kelas bawah dan marginal yang demikian ini pada dasarnya bukan berangkat dari titik pandang yang mempertanyakan situasi saat itu, melainkan dikonstruksi lewat cara-cara pandang positif akan situasi saat itu. Terlebih lagi ada tujuan-tujuan untuk menyokong pemerintah atau perusahaan, khususnya pada ‘Edisi Luar Negeri’ kecenderungan ini sangat lah kuat, dan dapat dikatakan mempunyai aspek-aspek untuk memperbagus citra Jepang.
Akan tetapi foto-foto tersebut memotret apa adanya daerah-daerah kumuh dan lingkungan-lingkungan tempat kerja yang buruk, tidak sanggup memperindah kenyataan yang ada di lapangan. Oleh karenanya artikel-artikel ini tidak menghimpun kisah-kisah citra indah perusahaan dan pemerintah, tetapi justru menyisakan aspek-aspek yang merekam dan memberitakan persoalan-persoalan yang ada disana.”[11]
Menurut Inoue, dalam ‘Asahi Graph Edisi Luar Negeri’ banyak memiliki konten-konten yang mendukung Jepang, namun keduanya baik ‘Asahi Graph’ maupun ‘Asahi Graph Edisi Luar Negeri’ meliput dan memuat kehidupan rakyat jelata, dan menempatkan dirinya dalam menjalankan peran menyampaikan keadaaan sebenarnya zaman itu.
Terdapat dua alasan mengapa penelitian kali ini memfokuskan pada ‘Asahi Graph’.
Salah satu alasannya adalah proyek penelitian ini tidak hanya menelusuri jalinan hubungan antara Indonesia dan Jepang selama perang, tetapi juga melakukan penyelidikan pengaruh-pengaruh timbal balik dari sekitar tahun 1900 hingga saat ini yang perlu diketahui. Dengan kata lain, tidak hanya meneliti hubungan kedua negara semasa perang dari bahan-bahan publikasi fotografis yang hanya diterbitkan di masa perang, tetapi juga dengan bahan-bahan yang terus dipublikasikan dari masa sebelum perang hingga pasca perang, dengan harapan dapat menjadi dasar pijakan untuk memahami keberlangsungan hubungan yang terjadi di waktu sebelum perang, saat perang, dan pasca perang.
Alasan kedua adalah bahwa perusahaan surat kabar ASAHI tidak diragukan lagi mengeluarkan banyak publikasi dengan menggunakan gambar-gambar foto di ‘Asahi Shimbun’, ‘Asahi Graph’, ‘Asahi Camera’, dan surat-surat kabar lokal seperti ‘Djawa Shimbun’, ‘Borneo Shimbun’, dan ‘Djawa Baroe’. Jika pada penelitian bidang fotografi, analisis-analisis yang dilakukan cenderung mengarah pada pengidentifikasian fotografer-fotografer dan karya-karyanya, namun dengan menjadikan majalah-majalah grafis perusahaan surat kabar Asahi yang memiliki banyak publikasi sebagai subyek penelitian dan melakukan riset-riset penelitian lebih dalam di kemudian hari, informasi-informasi yang tidak dapat dilihat hanya pada satu jenis publikasi dirasakan ada kemungkinan dapat diperoleh dari majalah-majalah lain.
Singkat cerita dalam penelitian-penelitian sejarah hingga saat ini ‘Shashin Shuho’ telah banyak menjadi subjek penelitian, atau sebagai kebijakan Jepang terhadap luar negeri semasa perang ‘Asahi Graph Edisi Luar Negeri’, ‘NIPPON’, ‘FRONT’ juga menarik untuk diamati. Namun sejauh penelitian ini yang akan dilakukan adalah analisis-analisis fotografi dari prespektif “Bagaimana pemerintah Jepang memperlihatkan wilayah-wilayah pendudukannya di dalam negeri Jepang”, atau “Bagaimana pemerintah Jepang memperlihatkan negara Jepang kepada orang-orang Jepang yang tinggal menetap di Indonesia”, dan selanjutnya adalah “Siapakah yang mengambil foto-foto tersebut?”
4. Tentang ‘Asahi Graph’
‘Asahi Graph’ pertama kali diterbitkan sebagai surat kabar foto harian pada bulan Januari 1923. Seperti yang telah ditunjukkan oleh Inoue [12], ‘Asahi Graph’ benar-benar menjadi sebuah jurnalisme foto adalah sehabis Bencana Gempa Besar Kanto. Kerusakan-kerusakan besar akibat Bencana Gempa Besar Kanto yang terjadi pada tanggal 1 September, tahun yang sama dengan publikasi pertama, membuat perusahaan surat kabar Asahi Shimbun Tokyo juga mengalami kerusakan parah. Akibat kerusakan-keruskan ini, “ ‘Asahi Graph’ dicetak oleh perusahaan surat kabar Asahi Shimbun Osaka dengan menggunakan mesin cetak gravure yang diimpor dari Jerman. Pertukaran manuskrip cetakan antara Tokyo dan Osaka ini sangat memakan waktu, oleh sebab itu ‘Asahi Graph’ kemudian beralih menjadi terbitan mingguan.”[13]
Pada publikasi harian, segenap upaya untuk mendapatkan berita dengan cepat akan dicurahkan, namun pada oublikasi mingguan sangat sulit mengharapkan kecepatan berita, perlu daya tarik yang berbeda dibanding publikasi harian. Itu lah sebabnya ‘Asahi Graph’ dihadapkan pada perlunya melakukan perombakan-perombakan untuk menjadi media baru yang memanfaatkan fotografi.
“Editorial” pertama dari mingguan ‘Asahi Graph’, menyinggung mengenai kerusakan-kerusakan yang disebabkan oleh Bencana Gempa Besar Kanto dan menyampaikan pentingnya pemulihan-pemulihan dalam arti semangat, seperti yang disebutkan dibawah ini.
“…Bukan kehidupan yang kering dan hambar, namun sebuah kehidupan yang dipenuhi oleh lelehan manis tetesan sari bunga, bukan kah itu hal yang paling utama kita butuhkan. Seni sastra, seni rupa, seni pertunjukan, dan kehidupan-kehidupan budaya lainnya yang menjadi makanan bagi jiwa dan dapat menumbuhkan semangat, telah mendapat hantaman besar. Masih panjang jalan menuju pemulihan yang sesungguhnya. Kelahiran mingguan Asahi Graph di musim gugur ini, membawakan sajian-sajian yang penuh dengan semangat jiwa ke keluarga anda. Dengan teknik seni cetak fotografi yang indah dan cemerlang, pertama-tama akan memanjakan mata para pembaca. Ini saja sudah mempunyai kekuatan untuk dapat menenangkan hati yang resah. Tidak hanya sebatas indah saja, tentu juga diyakini ada banyak hal yang terkandung di dalamnya akan bermanfaat bagi para pembaca.”[14]
Kata-kata di atas diduga adalah kata-kata Narusawa Reikawa (Narusawa Kinbei, 1877-1962), yang menjabat sebagai pemimpin redaksi hingga edisi 16 Maret 1927. ‘Asahi Graph’ yang berubah menjadi majalah mingguan ini, diterbitkan ulang dengan halaman-halaman yang memuat foto-foto indah agar dapat mengobati hati orang-orang yang ditimpa kemalangan akibat Bencana Gempa Besar Kanto, bertujuan untuk memuaskan rasa ingin tahu dan minat pembacanya. Ditambah lagi, dalam mingguan ‘Asahi Graph’ dimuat artikel-artikel tentang Manchuria dan Taiwan sejak terbitan perdananya, menunjukkan bahwa sudah sedari awal telah mengarahkan pandangan matanya ke negeri-negeri luar. Cerita-cerita tentang Indonesia mulai dimuat di sini pada tahun 1938, dan baru pada tahun 1942 mendapatkan porsi halaman yang lebih banyak.
5. Fotografer-Fotografer yang memfoto Indonesia di ‘Asahi Graph’
Di sini akan dirangkumkan hasil investigasi ‘Asahi Graph’ yang diterbitkan dari edisi perdana di tahun 1923 sampai akhir tahun 1950, ditinjau dari siapa yang mengambil foto-foto Indonesia yang dimuat dalam ‘Asahi Graph’.
Selama kurun waktu dari tahun 1926 sampai tahun 1929, halaman majalah memuat secara berseri proyek yang dinamakan “Serikat Kelompok Wartawan Foto Asahi Graph”. Nama-nama seperti “Nishikori Kaichi, Sato, Okubo, Atsumi Yuichiro, Kobayashi, Taniguchi, Kumada Toshihei, Saito, Seiu, Okubo Koroku, Minosuke, Yoshikatsu, Minosuke, Fujimoto Mamoru” tercatat disana (nama-nama yang ditaruh pada tempat pertama adalah nama-nama dengan urutan yang sering muncul berkali-kali dalam majalah, daftar nama-nama fotografer sesudahnya juga sama). Ada yang memakai nama keluarga, dan ada juga yang menggunakan nama panggilan. Dari proyek ini dapat diketahui bahwa dalam waktu yang tidak begitu lama dari waktu penerbitan perdana, ‘Asahi Graph’ telah memiliki banyak wartawan foto. Sampai pertengahan akhir tahun 1930-an, halaman-halaman majalahnya cenderung banyak menempatkan artikel-artikel budaya dalam negeri, dan konten-konten yang memperkenalkan tren dan daerah-daerah wisata.
Setelah tahun 1937, isinya berubah drastis banyak diwarnai oleh situasi peperangan seperti cerita-cerita yang berisikan tentang Perang Jepang-Cina. Selanjutnya, pada edisi 6 April 1938 (No. 752) muncul halaman yang memuat artikel tentang Indonesia. Di sini dimuat artikel yang berjudul “Reportase Borneo, Pulau Harta Karun Laut Selatan”. Yang mengemban tanggung jawab untuk mengambil foto-foto bukan wartawan surat kabar Asahi Shimbun, tetapi “Nipei Yagi dan Eiji Tsubouchi dari Geijutsu Eigasha”. Di tahun 1943 Geijutsu Eigasha bergabung dengan perusahaan lain dan berubah nama menjadi Asahi Eigasha, dan sejak pada saat itu merupakan organisasi sendiri yang terpisah dari Asahi Shimbun. Seperti yang disebutkan pada judul artikel ini, Indonesia di halaman majalah adalah sebagai sebuah negeri yang meskipun mempunyai pesona berbeda dari Jepang, namun ditempatkan sebagai sesama negara di wilayah Asia yang secara mendasar mempunyai kesamaan budaya dan pemikiran. Foto-foto yang ditampilkan dalam majalah ini banyak bercerita tentang arsitektur Indonesia, gaya hidup, budaya makanan dan aspek-aspek lain dari negara ini, juga orang-orang dengan wajah tersenyum.
Sesudah itu, isi utama artikel-artikel luar negeri adalah tentang medan pertempuran Cina, sedangkan artikel-artikel mengenai Indonesia dalam setahun dimuat beberapa kali. Selama kurun waktu dari tahun 1939 sampai tahun 1941, ditemukan nama-nama seperti “Kuramochi Hiroshi, Koresponden Kazetagawa, dan Koresponden Oka” sebagai fotografer. Setelah tahun 1941 juga mulai didapati foto-foto yang disajikan oleh Bagian Penerangan Angkatan Laut.
Menginjak tahun 1942, artikel-artikel yang berkaitan dengan Indonesia bertambah jumlahnya, dan cenderung meningkat khususnya sesudah bulan April. Perubahan ini bertepatan dengan pembentukan Biro Umum Wilayah Selatan. “Operasi militer Jepang ke wilayah Asia Tenggara berakhir dengan penaklukan Burma pada Mei 1942”[15], dan “setelah markas besar militer wilayah selatan dipindahkan dari Saigon ke Singapura pada tanggal 1 Juli 1942, pada tanggal 14 di bulan yang sama Domei mendirikan Biro Umum Wilayah Selatan di Singapura merangkap sebagai kantor cabang wilayah Selatan.”[16]. Bersamaan dengan masa-masa itu informasi-informasi tentang Indonesia di halaman majalah jumlahnya makin meningkat.
Seiring dengan peningkatan tersebut, nama “Koresponden Foto Iwatsu” pada halaman majalah bertambah banyak. Dengan demikian dapat diperkirakan pada tahun 1942 “Koresponden Iwatsu” dikirim ke Indonesia untuk megambil foto-foto di lapangan bagi ‘Asahi Graph’ atau perusahaan penerbitan Asahi Shimbun. Berikut di bawah ini adalah nama-nama yang tercatat sebagai para fotografer yang mengambil foto untuk artikel-artikel tentang Indonesia pada tahun 1942.
“Koresponden Iwatsu, Koresponden Tomomatsu, Koresponden Yoneya, Anggota Bagian Penerangan Angkatan Laut Yamabata, Anggota Bagian Penerangan Angkatan Darat, Koresponden Shimada, Koresponden Nishikawa, Koresponden Matsumoto, Kepala Bagian Penerangan Angkatan Darat Wilayah Selatan Keiji Machida, Koresponden Hayashi, Koresponden Ogawa (Anggota Bagian Penerangan Angkatan Laut ), Koresponden Iwasawa, Koresponden Hayashi, Anggota Bagian Penerangan Angkatan Laut Tanimura, Koresponden Kazetagawa, Koresponden Saito, Koresponden Sugimoto, Anggota Bagian Penerangan Angkatan Laut Mochizuki, Koresponden Ike, Koresponden Tanaka, Bagian Propaganda Militer, Susumu Tomomatsu”
Meskipun sulit untuk mengklasifikasikannya dengan tepat, dapat dikatakan bahwa artikel-artikel yang gambarnya memperkenalkan kota-kota, pemandangan, alam dan budaya Indonesia diambil oleh para koresponden, sementara momen-momen seperti pelatihan militer disediakan oleh pihak militer. Juga di antara koresponden terdapat fotografer-fotografer yang tergabung kedalam bagian penerangan militer. Foto-foto yang ditampilkan banyak berupa foto-foto tentara dengan wajah tersenyum sekalipun itu adalah foto-foto latihan militer, dan menonjolkan suasana para tentara yang disambut dan diterima oleh penduduk setempat. Selain itu banyak foto yang menampilkan suasana positif masyarakat Indonesia dalam menerima budaya Jepang, dipadukan dengan susunan kalimat yang menceritakan suatu hubungan persahabatan yang sangat erat.
Pada tahun 1943, dicantumkan nama-nama seperti “Koresponden Kantor Pusat Iwatsu, Koresponden Kanno, Koresponden Munetomo (Bagian Penerangan Angkatan Laut), Koresponden Maruyama, Koresponden Kazetagawa, dan Koresponden Arikawa”, namun artikel-artikel tanpa nama fotografer juga meningkat jumlahnya. Dalam sebuah artikel tanggal 28 Juli (Edisi Nomor 1026) yang berjudul “‘Kedatangan Bapak Kami’ di Jawa, Perdana Menteri Tojo” tertulis “Foto Oleh Kantor Pusat Cabang Jakarta”, dimana untuk pertama kalinya muncul nama “Kantor Pusat Cabang Jakarta”. Ini menunjukkan bahwa sejak 1942, kebijakan media di wilayah Selatan benar-benar telah dijalankan dan sistemnya tertata rapi. Kemudian pada bulan Agustus juga terdapat sebuah artikel yang fotonya diambil oleh “Bagian Fotografi Djawa Shimbun”. Jalinan hubungan antara ‘Djawa Shimbun’ dan ‘Asahi Graph’ akan dituliskan berikut.
Memasuki tahun 1944, artikel-artikel tanpa nama fotografer jumlahnya meningkat tajam, dan situasi peperangan serentak mewarnai banyak halaman majalah. Nama-nama fotografer pada tahun 1944 hanya dapat disebutkan beberapa seperti sebagai berikut: ”Suzuki Minoru, Unit Penerangan Departemen Propaganda Pasukan Nada, Koresponden Ueno, Koresponden Otsuka, Harada Isoo, dan Saito Sadao”.
Selanjutnya pada terbitan 17 Januari 1945 (Edisi No. 1101), “Topik minggu ini: tentara-tentara penduduk asli Kalimantan pulang kampung dengan membawa gemilang kemenangan” (Foto oleh Kikuzo Tsubouchi) adalah yang terakhir, dari pengamatan yang dilakukan dalam penelitian ini artikel-artikel yang berhubungan dengan Indonesia hingga akhir tahun 1950 tidak dapat diketemukan. Dengan kata lain, foto-foto tentang Indonesia tidak lagi dimuat seiring dengan berakhirnya perang.
Lebih lanjut lagi jika memperhatikan ‘Asahi Graph’ dari masa sebelum perang hingga masa pasca perang, sebagian besar foto-foto yang ditampilkan diambil oleh koresponden Asahi Shimbun, koresponden dan awak media yang tergabung dalam Angkatan Darat dan Angkatan Laut, dan disini juga dapat ditambahkan foto-foto yang diambil oleh surat kabar ‘Djawa Shimbun’. Diketahui juga bersamaan dengan meningkatnya jumlah artikel terdapat kecenderungan banyak artikel tidak mencantumkan nama-nama fotografernya. Jumlah foto makin bertambah seiring perang yang makin berkecamuk. Foto-foto yang senantiasa disajikan kepada para pembaca Jepang tersebut selain memperlihatkan minat yang dalam akan perbedaan alam lingkungan, juga memberitakan hubungan persahabatan dengan Indonesia, dipadu dengan kalimat-kalimat yang berisi untuk meningkatkan rasa empati sebagai sesama orang Asia. Selanjutnya, dengan berakhirnya perang maka foto-foto tentang Indonesia tidak lagi diterbitkan sama sekali.
6. Asahi Shimbun di Indonesia
Perusahaan surat kabar Asahi Shimbun juga memproduksi surat kabar dan majalah grafis untuk orang Jepang yang tinggal di Indonesia. Salah satunya adalah ‘Djawa Shimbun’, merupakan surat kabar harian berbahasa Jepang yang diluncurkan perdana pada tanggal 8 Desember 1942. Jika melacak awal mula surat kabar berbahasa Jepang di Jawa pada masa perang, dapat ditelusuri hingga ke dalam kapal-kapal yang menuju ke Jawa. Ketika Perang Pasifik meletus pada bulan Desember 1941, dibentuk sebuah satuan tim propaganda dalam pasukan yang ditugaskan ke Jawa. Dalam pasukan yang dikirim ke Jawa ini “dibuat surat kabar harian berskala kecil yang diberi nama ‘berita kathulistiwa’ yang melibatkan 30-40 orang didalamnya termasuk orang-orang media, penulis, dan kartunis [17]. Mungkin karena perkembangan inilah maka ciri-ciri dari ‘Djawa Shimbun’ digambarkan sebagai berikut.
“Djawa Shimbun pada mulanya memiliki karakter kuat sebagai surat kabar di dalam barak-barak tentara. Iijima Tamotsu, direktur redaksi pertama, membuat tampilan halaman yang mencolok dengan headline diperbesar agar satu surat kabar dapat dibaca oleh lima atau enam orang prajurit secara melingkar. Ini juga dikarenakan situasi peperangan yang berjalan dengan baik, dan banyak sesuatu yang layak untuk ditampilkan secara besar-besaran. Artikel-artikelnya tentu saja sebagian besar adalah hal-hal yang bersifat ‘perang suci’, tetapi tidak sedikit juga menaruh perhatian terhadap diskusi-diskusi perempuan lokal, situasi persediaan bahan pangan, secara tidak langsung mengangkat isu agar aksi-aksi yang meminta penduduk lokal untuk meningkatkan produksi bahan makanan bagi kepentingan militer tidak berlebihan, memperingatkan akan masalah kesehatan terhadap penyakit-penyakit menular wilayah tropis dan penyakit musiman.”[18]
Dengan kata lain, ‘Djawa Shimbun’ bukan lah surat kabar untuk dibaca seorang diri, tetapi dimaksudkan untuk dibaca secara bersama-sama oleh para anggota pasukan, tidak hanya berita-berita militer, diusahakan isi beritanya adalah hal-hal yang perlu untuk dimengerti dan diperhatikan seperti tentang budaya wilayah-wilayah dimana pasukan dikirim bertugas.
‘Djawa Shimbun’ tentu saja merupakan surat kabar berbahasa Jepang yang hadir pada masa perang, namun di Indonesia sebelum itu sudah terbit surat kabar berbahasa Jepang. Contohnya adalah sudah disebutkan sebelumnya seperti, ‘Java Nippo’ dan ‘Koran Dagang Nichiran’, juga ‘Toindo Nippo’ yang merupakan penggabungan dari kedua perusahaan tersebut. Dalam bukunya tentang ‘Toindo Nippo’, Torii Hideharu yang bekerja untuk Kyodo News melakukan penelitian Kantor Berita di Domei menulis bahwa “Saito Masao adalah direktur, sedangkan Taniguchi Goro adalah pemimpin redaksi. Taniguchi juga merangkap sebagai pegawai Kantor Berita Asahi Shimbun”. [19] Disini yang perlu diperhatikan adalah Taniguchi dari ‘Toindo Nipo’ juga pegawai dari Kantor Berita Asahi Shimbun. Diperkirakan tidak sedikit dari mereka yang berkecimpung dalam dunia media seperti Taniguchi pindah ke Indonesia dalam rangka menjalankan kebijakan nasional, karena sebelumnya mereka pernah bekerja di perusahaan penerbitan atau kantor berita besar, dan juga karena alasan-alasan komersial. Mengenai aktivitas-aktivitas mereka akan diadakan penelitian di kemudian hari.
‘Edisi revisi resmi yang ukurannya diperkecil, Catatan-Catatan Rahasia Sejarah Perang Asia Timur Raya, 6 Jilid, distribusi ke-5 edisi Filipina dan Hindia Belanda’ (Ikeda Tasuku (Editor), Penerbit Fujishoen, 1954), dibicarakan tentang catatan pengalaman orang-orang terkait dengan wilayah Selatan dalam posisinya sebagai pegawai perusahaan kantor berita dan surat kabar. Taniguchi juga berbicara tentang pengalamannya sendiri di sini. Misalnya dalam berbagai makalah penelitian, masing-masing perusahaan mencantumkan daftar nama-nama daerah di wilayah Selatan yang akan diterbitkan surat kabar, dan alasan perusahaan surat kabar Asahi Shimbun memilih untuk menerbitkan surat kabar di Jawa dilihat dari sudut pandang orang-orang pada masa itu, Taniguchi menuliskan sebagai berikut.
“Ketika surat kabar dalam barak-barak tentara sedang terkendala oleh kurangnya huruf-huruf cetakan, Direktur Asahi Shimbun Murayama datang ke Jawa untuk melakukan suatu peninjauan. Setelah mendengar permasalahan tersebut, tidak lama setelah kembalinya Murayama ke Jepang, sebuah pesawat milik Asahi membawa seperangkat mesin cetak punya Asahi yang mampu mencetak karakter huruf yang akan digunakan dalam surat kabar berbahasa jepang untuk dihadiahkan kepada panglima militer wilayah Jawa. Sebagai penilaian atas niat tulus dari Asahi terhadap surat kabar yang sedemikian rupa, maka panglima militer saat itu Imamura Hitoshi memutuskan memberikan kepercayaan kepada Asahi Shimbun untuk mengelolah surat kabar berbahasa Jepang di wilayah Jawa, begitu yang sebenarnya dibalik cerita Asahi meluaskan ekspansinya ke Jawa.”[20]
Sulit disampaikan hanya dengan kalimat-kalimat yang sekedar mencantumkan bidang-bidang kewenangan, namun ini dapat dirasakan dalam kalimat-kalimat yang terdapat pikiran-pikiran untuk menciptakan hubungan antar manusia dan surat kabar dalam di wilayah-wilayah yang jauh dari Jepang. Di kemudian hari faktor-faktor menentukan yang tercatat dalam daftar sejarah, dalam banyak hal bermula dari hubungan manusia dan kejadian-kejadian sepeleh seperti ini, meski itu merupakan sesuatu yang sangat sulit terlihat. Hal-hal semacam ini dapat dilihat dengan melakukan pengamatan-pengamatan secara mendalam terhadap individu-individu yang terlibat, yang akan dilakukan setelah mengidentifikasi para fotografer-fotografer tertentu. Kebetulan, Taniguchi juga menjabat sebagai Sekretaris Jenderal Asosiasi Surat Kabar Jawa [21] yang berdiri pada 3 Februari 1943.
Selain ‘Djawa Shimbun’ perusahaan surat kabar Jawa menerbitkan ‘Djawa Baroe’ majalah foto berukuran kecil bagi keperluan propaganda yang keluar sebulan dua kali. Mengenai foto-foto dalam ‘Djawa Baroe’ dinyatakan bahwa “‘Djawa Baroe’ yang utama adalah gambar-gambar foto, bekerjasama dengan ‘Asahi Graph’ dan ‘Taiyo’ dan saling bertukar foto”[22]. Dengan kata lain, foto-foto yang tercantum tulisan “Departemen Fotografi Djawa Shimbun” dalam ‘Asahi Graph’ mungkin saja adalah foto-foto yang diambil buat ‘Djawa Baroe’. Serupa dengan hal ini, pada surat kabar dan majalah grafis yang diterbitkan oleh perusahaan surat kabar Asahi Shimbun dapat diduga terdapat kemitraan dan kerjasama yang lain dalam hal foto dan artikel. Mengenai hal ini juga akan diadakan penelitian di kemudian hari.
Perusahaan surat kabar Asahi Shimbun juga ditugaskan oleh Angkatan Laut untuk mendirikan kantor pusat ‘Borneo Shimbun’ di Banjarmasin, Kalimantan.[23] Sehubungan dengan pendirian Borneo Shimbun, tertinggal catatan-catatan yang menyebutkan, “Di Jawa, pada awalnya militer setempat menunjukkan keengganan pegawai Djawa Shimbun merangkap jabatan sebagai pegawai Asahi Shimbun di kantor-kantor cabang Jakarta dan Bandung, tetapi di Borneo militer setempat tidak mempermasalahkan dan dengan gampang menyetujui rangkap jabatan pegawai kantor cabang Asahi Shimbun sebagai pegawai Borneo Shimbun”[24], sehingga dapat dipahami wartawan-wartawan lokal perusahaan penerbitan Asahi Shimbun juga berkiprah dalam ‘Djawa Shimbun’ dan ‘Borneo Shimbun’. Dengan kata lain, meskipun nama media dan lembar halamannya berbeda-beda, kemungkinan besar foto-foto yang sama akan dimuat dalam berbagai macam media. Mengenai hal ini juga akan diadakan penelitian di kemudian hari.
Melihat seperti ini, foto-foto dalam ‘Asahi Graph’ dan publikasi-publikasi lain yang berkaitan dengan perusahaan surat kabar Asahi Shimbun diambil oleh wartawan-wartawan Asahi Shimbun yang ditugaskan seperti yang disebutkan sebelumnya, dan oleh unit-unit penerangan Angkatan Darat dan Angkatan Laut. Disini muncul sebuah pertanyaan. Tidak kah para fotografer atau pemilik studio foto yang telah melakukan perjalanan dari Jepang sebelum perang, dengan mengambil foto-foto dan menerbitkannya atau menyerahkan foto-foto yang mereka jual seperti foto-foto alam lingkungan Indonesia ke perusahaan surat kabar Asahi Shimbun sebagai suatu kerjasama di jaman perang? Jika melihat hasil penelitian yang kesimpulan sementaranya adalah “Tidak Ada”, maka diperkirakan terdapat dua alasan. Salah satunya adalah tidak ada permintaan kepada pemilik studio foto, sedang yang satu lagi adalah orang-orang yang berkecimpung di studio foto pada masa itu sudah kembali ke Jepang. Mengenai hal ini, Aoki menuliskan sebagai berikut.
“Pada tahun 1930-an, banyak fotografer yang berhenti menuliskan namanya di kartu pos bergambar karena dicurigai memiliki hubungan dengan pemerintah atau militer Jepang. Jepang yang mempunyai minat terhadap wilayah jajahan Belanda dan sumber-sumber daya alamnya, dalam kenyataanya memanfaatkan orang-orang di antara para fotografer sebagai kolaborator. Seperti yang dikatakan oleh Omar Yadi, pemerintah Hindia Belanda beranggapan bahwa para fotografer Jepang tersebut dikirim oleh pemerintah Jepang untuk dijadikan mata-mata, begitu juga dengan banyak penduduk biasa. Akan tetapi para fotografer, fotografer pembuat kartu pos bergambar, dan pemilik studio adalah orang-orang biasa yang tidak dibawah naungan pemerintah Jepang, yang datang ke Indonesia tanpa modal atau sedikit modal untuk membuka usaha. Oleh sebab itu mereka tidak meninggalkan catatan-catatan tentang diri sendiri, dan keberadaan mereka juga tidak pernah tercatat. Bersamaan dengan meletusnya Perang Dunia Kedua, mereka terpaksa meninggalkan harta benda dan pulang kembali ke Jepang, kabar mereka setelah itu hampir tidak diketahui lagi.”[25]
Jadi berdasarkan analisis Aoki, dengan makin berkecamuknya perang, para pemilik studio foto makin kuat dicurigai melakukan kegiatan mata-mata, dan begitu pecah Perang Dunia Kedua mereka seperti dikejar-kejar, sehingga kembali pulang ke Jepang. Jika benar demikian, dapat diterima alasan bahwa mereka yang sudah menetap di Indonesia dari masa sebelum perang dan tentunya mendapatkan hal-hal baik seperti hubungan antar manusia dan mempunyai perasaan dekat dengan lingkungan wilayah sekitarnya, tidak mungkin mengambil foto-foto hanya demi menjadi mata-mata.
Apabila kita membahasnya seperti ini, secara gamblang dapat dipahami bahwa wartawan-wartawan foto perusahaan surat kabar Asahi Shimbun yang dikirim ke tiap-tiap wilayah untuk mengambil foto-foto adalah sebagai bagian dari pekerjaan mereka. Disitu sulit untuk merasakan keberadaan seorang individu, yang muncul secara samar-samar hanya gambaran sosok “Wartawan Asahi Shimbun”. Misalnya, dalam penelitian ini, diketahui bahwa “Koresponden Iwatsu” dikirim ke Indonesia dan mengambil banyak foto, namun tidak sampai pada tahap memahami karakter pribadinya dan saat-saat berkomunikasi dengan masyarakat setempat.
Di titik seperti ini lah kesulitan-kesulitan melakukan analisis foto selama masa perang. Karena sebagian besar foto banyak yang tidak mencantumkan nama fotografernya atau hanya menyebut nama organisasi, sulit menjelaskan sisi-sisi kemanusiaan dan psikologi, atau hubungan antar manusia dari sang fotografer yang tersembunyi di baliknya, dan hanya terbatas sampai pada analisis-analisis objektif dan kaku. Sangat sulit menemukan catatatan-catatan yang tertinggal, terutama bukan pada seorang fotografer melainkan keberadaan para fotografer yang disebut juru berita dan tergabung ke dalam sebuah organisasi, yang cenderung dibicarakan sambil lalu sebagai sebagai satu bingkai foto di dalam organisasi.
Tetapi tentu saja mereka datang ke Indonesia sebagai seorang manusia yang mempunyai perasaan. Kata-kata seorang awak media tidak begitu dipertimbangkan, ucapan Masaru Kawai dari Asahi Shimbun menunjukkan sebagian hal itu.
“Tentu saja terjadi gangguan dan kekerasan pada awak media. Meski pasukan Inggris dan India telah melakukan pendudukan, Djawa Shimbun tetap terbit. Hari saat sebagian pasukan sekutu telah memasuki kota Jakarta, saya merasa perlu memasukkan foto-foto momen peristiwa ini, dan memintanya pada bagian fotografi. Tidak lama berselang kemudian datang si A sebagai juru kamera termuda dengan wajah yang mendadak berubah pucat dan berkata, ‘Kalau ingin dapat foto ambil aja sendiri, kalau tidak sengaja mengarah ke kamera dan tertembak, siapa yang akan bertanggung jawab? Ini konyol, maaf saya tidak ingin melakukan pekerjaan ini.” [26]
Dari kejadian tersebut, terdapat pesan bahwa foto-foto yang dimuat di berbagai halaman majalah tidak diambil secara robotik oleh sebuah mesin, melainkan diambil oleh seorang manusia yang memegang kamera dengan tubuh berdarah-darah.
Berikutnya untuk mengidentifikasi pribadi fotografer dan mendapatkan garis besarnya, tidak terbatas pada ‘Asahi Graph’ atau perusahan surat kabar Asahi Shimbun, perlu pengamatan lebih dalam, orang Jepang seperti apakah saat itu yang memegang kamera, dan untuk tujuan apa mengambil foto. Dengan melakukan hal tersebut dapat dianalisis satu per satu pribadi fotografer, kadar antusiasme mereka dalam mengambil foto, atau dapat memperjelas latar belakangnya, dan akhirnya dapat memahami hubungan antara Indonesia dan Jepang melalui media fotografi, dan apa yang hendak disampaikan oleh orang-orang Jepang yang tinggal di Indonesia kepada sesama orang Jepang.
Penutup
Makalah ini telah membahas awal mula dan hubungan antara “fotografi” Indonesia dan Jepang, dan perihal yang berkaitan dengan para fotografer dalam artikel-artikel tentang Indonesia di ‘Asahi Graph’. Penelitian ini masih dalam tahap awal, dan hasilnya telah membuat kami sangat menyadari perlunya penelitian lebih lanjut di masa mendatang.
Dari foto-foto yang diterbitkan dalam Asahi Graph menunjukkan dan memberikan informasi kepada para pembaca Jepang bahwa Indonesia adalah negeri dengan daya tarik yang berbeda dari Jepang, yang di bagian dasarnya mengalir kesamaan-kesamaan sebagai sesama negara Asia, namun ini cenderung seperti teori-teori umum yang berlaku dan bukan merupakan temuan-temuan baru. Ditambah lagi artikel-artikel tentang Indonesia yang mulai muncul di Asahi Graph dari tahun 1938 merupakan artikel-artikel yang sudah memiliki cita rasa masa perang, dan tidak dimuat lagi seiring berakhirnya perang. Oleh sebab itu, untuk memahami aliran antara kedua negara yang menjadi dasar dari periode sebelum perang hingga saat ini tidak akan kesampaian hanya dengan penelitian ‘Asahi Graph’. Mengenai hal ini perlu dipertimbangkan metode-metode baru yang dapat meneliti dengan tidak membagi periode waktu, sebelum perang, masa perang, dan pasca perang. Untuk tujuan ini, dirasakan perlu menggali lebih dalam sampai tahap dapat dijadikan subjek penelitian, bukan pada media-media yang metode penyajiannya dapat berganti-ganti menurut kebijakan nasional melainkan pada pribadi-pribadi para fotografer.
Berdasarkan hal di atas, di masa mendatang akan diperdalam penelitian pada dua poin berikut ini secara khusus.
Yang pertama adalah penelitian perusahaan surat kabar Asahi Shimbun. Dalam penelitian ini, langkah pertama adalah mengumpulkan informasi-informasi dari para fotografer yang namanya dimuat dalam ‘Asahi Graph’. Akan tetapi dengan semakin berkecamuknya perang, jumlah artikel-artikel tanpa menyebut nama bertambah, sangat sulit untuk mengidentifikasi para fotografernya. Perusahaan surat kabar Asahi Shimbun menerbitkan banyak publikasi selama masa perang. Dipadu dengan melakukan analisis perbandingan, serta memperdalam penelitian tentang organisasi-organisasi saat itu, kami berharap bisa mendapatkan pemahaman yang lebih konkret tentang bagaimana foto-foto itu diambil, dibagikan dan dipublikasikan. Dan jika terdapat kesulitan dalam mengidentifikasi fotografernya, maka dalam bidang fotografi perlu juga dipertimbangkan untuk menilai foto-foto anonim.
Poin kedua adalah penyusunan data digital dengan merapikan dan menyalin ‘Java Nippo’, yang sedianya akan dilakukan dalam tahun ini. Ini tentu juga mempunyai arti untuk melestarikan dokumen-dokumen sejarah, bagaimana ‘Java Nippo’ dianggap di Indonesia pada saat itu, dan bagaimana surat-surat kabar lain yang ditujukan untuk orang Indonesia mengabarkan berita-berita yang sama berdasarkan pemahaman isi dari ‘Java Nippo’, apakah di sana terdapat perbedaan dalam foto-foto yang digunakan.
Meskipun penelitian tahun ini isinya terbatas pada apa yang bisa dikerjakan di dalam negeri, namun dengan melakukan penelitian-penelitian dengan prespektif yang dipunyai oleh kedua negara, Indonesia dan Jepang, akan terdapat arti penting pada proyek penelitian utama. Dengan kata lain, daripada menganalisis dan menafsirkan Indonesia secara sepihak dari Jepang, bukan kah akan lebih bermakna mengetahui bagaimana jaman tersebut dirasakan dan dibicarakan di Indonesia, dan memperjelas perbedaan dalam cara memandang, mengkomunikasikan, dan menerima hal-hal yang sama beserta alasan-alasannya.
Selanjutnya, peranan para peneliti dalam proyek ini adalah mempelajari bagaimana fotografi digunakan dalam konteks ini, dan untuk menemukan kemanusiaan dan budaya.
<Daftar Pustaka Utama> (nama penulis sesuai urutan abjad)
– Aoki, Sumio (Penulis) Pusat Penelitian Bahasa Jepang Fakultas Ilmu Budaya Universitas Padjadjaran (Kerjasama dan Penerjemahan) 2017, 『日本人が見た100年前のインドネシア 日本人社会と写真絵葉書』 (Indonesia 100 Tahun Lampau Yang Dilihat Orang Jepang, Masyarakat Jepang dan Foto-Foto Pada Kartu Pos), Harian Jakarta SHIMBUN
– Dewan Editorial Seratus Tahun Sejarah Asahi Shimbun (Ed.) 1995, 『朝日新聞社史 大正・昭和戦前編 大正元年(1912年)〜昭和20年(1945年)』(‘Sejarah Perusahaan Surat Kabar Asahi Shimbun, Edisi Taisho Showa Sebelum Perang Awal Taisho (1912) – Showa 20 (1945)’), Ikeda Tasuku (Ed.) 1954, 『改訂縮刷決定版 秘録大東亜戦史 全6巻 第5回配本 比島蘭印篇』‘Edisi revisi resmi yang ukurannya diperkecil, Catatan-Catatan Rahasia Sejarah Perang Asia Timur Raya, 6 Jilid, distribusi ke-5 edisi Filipina dan Hindia Belanda’, Penerbit Fujishoen
– Inoue, Yuko 2009, 『戦時グラフ雑誌の宣伝戦 十五年戦争下の「日本」イメージ』(Propaganda Majalah Grafis Masa Perang – Citra “Jepang” Dalam Perang Lima Belas Tahun), Seikyusha Co.
– Jagatara Tomonokai 1987, 『写真で綴る蘭印生活半世紀−戦前期インドネシアの日本人社会−』(Setengah Abad Kehidupan Hindia Belanda Dituturkan Dengan Foto – Masyarkat Jepang di Indonesia Sebelum Perang), Jagatara Tomonokai.
– Osamu Satomi 2000, 『ニュース・エージェンシー』(Kantor Berita), Chuokoron Shinsha.
– Tamai, Kiyoshi (ed.) 2017, 『『写真週報』とその時代(上)−戦時日本の国民生活』(‘Shashin Shuho’ dan zaman itu (1) – Kehidupan Rakyat Jepang di Masa Perang), Keio University Press.
– Tamai, Kiyoshi (ed.) 2017, 『『写真週報』とその時代(下)−戦後日本の国防・対外意識』(‘Shashin Shuho’ dan zaman itu (2) – Pertahanan Jepang dan Kesadaran Akan Luar Negeri Pasca Perang), Keio University Press..
– Torii, Hideharu 2014, 『国策通信社『同盟』の興亡−通信記者と戦争』(Bangkit dan Runtuhnya Kantor Berita ‘DOMEI’ – Reporter Berita dan Perang), Kadensha Ltd.
– Yayasan Dewan Penerbitan Sejarah Kantor Berita (Ed.) 1958,『通信社史』(Sejarah Kantor Berita), Tsuushinshashi Kankou Kai.
– Zhuang Wubin 2016, ‘PHOTOGRAPHY IN SOUTHEAST ASIA’:A Survey, NUS Press
Catatan:
[1] Zhuang Wubin 2016, 『PHOTOGRAPHY IN SOUTHEAST ASIA:A Survey』, NUS Press, Hal.67.
[2] Jagatara Tomo No Kai 1987, “Foto-foto Setengah Abad Kehidupan di Hindia Belanda: Masyarakat Jepang Di Indonesia Pada Masa Sebelum Perang”, Jagatara Tomo No Kai, Hal. 177.
[3] Ibid., Hal. 149.
[4] Sumio Aoki (Penulis), Pusat Penelitian Bahasa Jepang Fakultas Ilmu Budaya Universitas Padjadjaran (kerjasama dan terjemahan) 2017, Indonesia 100 Tahun Lampau Yang Dilihat Orang Jepang, Masyarakat Jepang dan Foto-Foto Pada Kartu Pos, Harian Jakarta Shimbun Hal. 14.
[5] Kiyoshi Tamai 2017, ‘Shashin Shuho’ dan jamannya (2) – Pertahanan Pasca Perang dan Kesadaran Luar Negeri, Keio University Press, Hal. 330.
[6] Masayasu Hosaka 2011, 『「写真週報」に見る戦時下の日本』Jepang Masa Perang Dilihat Dalam “Shashin Shuho”, Sekai Bunkasha, Hal. 4
[7] Ibid., Hal. 5.
[8] Penghargaan ini dibuat oleh Asahi Shimbun pada tahun 1975. Penghargaan diberikan kepada pendatang baru yang telah mencapai hasil luar biasa dalam produksi foto, tanpa menghiraukan apakah mereka profesional atau amatir. Penghargaan ini juga dikenal sebagai “Trofi Akutagawa Dunia Fotografi”.
[9] Penghargaan fotografi yang diadakan oleh perusahaan surat kabar Mainichi pada tahun 1981. Dibanding Trofi Kimura Ihei, penghargaan ini mempunyai tempat sebagai “Trofi Naoki Dunia Fotografi”.
[10] Pertama kali diterbitkan pada tahun 1943 sebagai ASAHIGRAPH EDISI LUAR NEGERI, September 1944 namanya berubah menjadi ‘JAPAN IN PICTURES’, dan berganti lagi menjadi ‘THE PICTORIAL ORIENT’ di bulan Juni 1950.
[11] Yuko Inoue 2009, “Bab 2: Tahap Pertama Permulaan Majalah Grafis Bagi Luar Negeri: Pecahnya Insiden Jembatan Marcopolo – akhir tahun 1934”, Propaganda Majalah Grafis Masa Perang Citra “Jepang” Dalam Perang Lima Belas Tahun, Seikyusha, Hal.67..
[12] “Bab 1: ‘Foto-Foto Berita’ dan Fajar Majalah Grafis”, dalam Inoue, Op. cit., Hal.23.
[13] Ibid., Hal. 23.
[14] “Dari Ruang Editorial”, ‘Asahi Graph’, Asahi Shimbun, 14-11-1923, Hal. 21.
[15] Hideharu Torii 2014, “Bab 11: ‘Kawasan Kemakmuran Bersama Asia Timur Raya’ dalam Media, Bagian 3: Aliansi Dalam Perang Asia-Pasifik”, Bangkit dan Runtuhnya Kantor Berita ‘DOMEI’ – Reporter Berita dan Perang, Kadensha, Hal. 534.
[16] Ibid., Hal. 534.
[17] Ibid., Hal. 548.
[18] Dewan Editorial Seratus Tahun Sejarah Asahi Shimbun (Ed.) 1995, “Bab 9: Kerja Sama Dalam Perang Total”, ‘Sejarah Perusahaan Surat Kabar Asahi Shimbun, Edisi Taisho Showa Sebelum Perang Awal Taisho (1912) – Showa 20 (1945)’, Asahi Shimbun, Hal. 619.
[19] Torii, op. cit., Hal. 549.
[20] Taniguchi Goro, “Dengan Pena: Jejak Langkah Jawa Shimbun”, ‘Edisi revisi resmi yang ukurannya diperkecil, Catatan-Catatan Rahasia Sejarah Perang Asia Timur Raya, 6 Jilid, distribusi ke-5 edisi Filipina dan Hindia Belanda’, Penerbit Fujishoen, Hal.449.
[21] Torii, op. cit., Hal. 550–551.
[22] Bab 9, Dewan Editorial Seratus Tahun Sejarah Asahi Shimbun, op. cit., Hal. 619.
[23] Torii, op. cit., Hal. 551–552.
‘Surat Kabar Borneo diluncurkan pada tanggal 8 Desember 1942 setelah pencaplokan Kalimantan Raya. Masing-masing satu lembar halaman dalam bahasa Jepang dan Melayu. Asahi Shimbun mengirimkan dua puluh orang yang dikepalai oleh Hiroyuki Shimoi sebagai direktur penanggung jawab.
[24] Bab 9, Dewan Editorial Seratus Tahun Sejarah Asahi Shimbun, op. cit., Hal. 623.
[25] Aoki, op. cit., Hal. 86.
[26] Kawai Masa, 「ジャワの日本人」(Orang-Orang Jepang Di Jawa), dalam Ikeda, op. cit., Hal. 345.