Reexamination Of Japanese “Southern” Experience

from The 1920s To 1950s

日本人の「南方」経験の再検討

-グローバル時代の新しい歴史像の構築に向けて-

【史料紹介】「南の田園」林芙美子(『論文・報告集』所収)

English ver.

(一)トドンの挿話
 ふっと眼(め)をあけると同時に、表の土間の方でカツン、カツンと木時計(ケンロガン)を打つ音が四つきこえた。暫(しばら)く耳を澄ましていると、さわさわと夜風の吹く村の方々で辻の木時計がにぶい音をたてて応えている。壁にひっかけてある豆ランプの灯がとろとろと光っている。私は寝巻(ねまき)の上から部屋着を引っかけて部屋の外へ出て、表口への大きいこわれた扉を押した。土間へ出ると冷たい身ぶるいするような夜明(よあけ)の風が吹きつけていた。土間の壁に張りつけてあるいろんな日本字のポスターが風にはためいている。
 土間の前のペナングアンの山々もまだはっきり見えない。土間のこわれた固い椅子に腰をかけると、土間から一段ひくくなった事務室(カントール)の土間から誰かが「タベエ」とあいさつをしている。薄くらがりのなかを透かしてみると、郵便配達のトドンが茣蓙(ござ)の上につくねんとしゃがんでいた。
 今日は夜明の六時までトドンが木時計を打つ当番とみえる。この山の中の夜明の風は全く身に沁(し)みるように寒い。星がうすく光っているのが、何(なん)となくうそ寒い。そのくせ耳を澄ますと、田圃(サワ)の方で蛙が啼きたてている。もう間もなく山の後の方から朝の神様を連れて来るであろう気配をこめて、夜の闇が少しずつ水ににじんだように仄々(ほのぼの)としはじめている。
 村長のスプノウ氏の咳をしている声が奥からきこえて来る。三つになった一人ッ子のディアナが何かむずかっているような声もしている。私は寒むかったのでサラサの部屋着を頭からかぶった。
 ペナングアンの小さい富士山のような山ぎわが少し明るくなり始めた。トドンは暗いなかで椰子煙草(やしたばこ)に火をつけている。マッチが不自由なので石のようなものを打ちつけて火をおこしている様子だ。
 トドンはまだ十七八のようだけれど、軀(からだ)つきはもうすっかり大人になっていて背(せい)も高い。
 四囲は少しずつ明るくなっている。一番はじめに夾竹桃(きょうちくとう)の桃色の花がはっきり見えて来る。女中(バブウ)のワラシが起き出したと見えて台所のかんぬきをはずす音がしている。昨夜は遅くまでタミチチンの部落で祭があるとかでガムランの優しい音色がしていたものだ。
「トドン、祭には行ってみたの」
 私がふっと声をかけると「はい(ヤア)、奥さま(ニョニャ)」とトドンは煙草を口から離してうやうやしくおじぎをしている。こうしたしつけのよさと云うものはジャワ人特有のものなのか、時々ものがなしい思いにさそいこまれる。結びめをぴんと後に張ったさらさの帽子をかぶって、トドンも寒いのか、腰布(サロン)をすっぽりとだるまさんのように肩からかぶって膝を組んでいた。つつましい礼儀作法をおろそかにしないこのような人達のすなおさに心が熱くなって来る。木時計(ケンロガン)は一間ばかりもある乾いた木を吊(つる)して、それを木の槌で時報がはりに叩くだけの簡単なものだけれど、どこの村でもこの時計は眼にする事が出来た。村長の事務所(カントール)ではじめに時を打ってやれば、村の辻々の木時計の下にはかならずその日の当直がいて、村長のところの木時計の音を合図に槌で叩きはじめる。バリーの島ではこの木時計(ケンロガン)をクルクルと云った様だった。
 太陽の神スウリヤがペナングアンの山の上から金の馬に乗って走って来た。トドンは頭を地につけて夜明けのお祈りをしている。原住民達はみんな信仰にあつくて、自然風物(しぜんふうぶつ)のものすべてを、神になぞらえて、その自然のあついめぐみを子供のように無邪気に受け入れているのだ。
 「奥さま、今日(きょう)はタミヤチンの方へおいでになってみては如何ですか、籠椅子(タノルウ)もございます」
 トドンが云った。
 私はこのトラワスの山の村へ来て、丁度二週間になる。毎日サワに出て原住民の百姓仕事を眺めるのが愉(たの)しみであったし、小学校(スコラ)へ行って先生に日本語を教えるのも愉しみであった。
 トラワスの村はずれに、巨きい榕樹(ワイリンギン)の木があって、誰でも此の不幸な木の下を通る時には走るように通りすぎた。私は学校の帰りに、この榕樹(ワイリンギン)の下に来て暫く涼をとるのが好きであった。村の原住民達はこの木を不幸な木だと云った。この木の下に長くいると榕樹(ワイリンギン)の精霊が人の軀にとっついて離れなくなり、いろんな不幸なことが始まると云うのだけれど、私はこのあたりでも一番眺めのいい場所にあるこの榕樹の木が好きであった。
 太陽の神スウリヤは、すっかり朝の光をふりまき始めた。木時計は六時を打った。丘の下の道を、羊(カンビン)を連れた女達がまずぞろぞろと通り始め、口々に「タベエ」と朝のあいさつをしてゆく。今日は日曜日で、窪地の広場では市場(バツサアル)の開く日だ。
 ペナングアンの山が茄子色にくっきりと鮮やかに姿を現わし、美しい円を描いて山の上に重なりあった田圃(サワ)は、朝の光を浴びて金色に光り始めて来る。トドンは安心したように槌を壁へかけて自分の家へかえって行った。ペナングアンの山は千六百米位の高さで、まるで富士山のようなかたちをしている。村長の家の土間から真正面なので、まるで広重の絵を見ているような気持だった。鶏の時を告げる声が所所にしている。前の市場には馬に荷物を積んだ男が来た。その男のあとからあとから、まるで流れるように近在の商人がいろいろなものを市場の中へ運んでいる。ただ屋根だけのがらんとした市場だけれど、やがて場所割りのくじが始まったようだ。
 女中(バブウ)のワラシが、裸足で熱いコォヒィを持って来た。小柄で、十四五歳の少女だけれど、顔の表情は老人のようににぶい。私は熱いコォヒィを見ると、急におなかが空(す)いたような気持になった。ワラシは私(わたし)の足もとの土の上にきちんと坐って、私の用事を待っている様子だ。
 私は、部屋のランプを消すことと、毛布を干して貰うことと、少しばかりの洗濯物を頼んだ。ワラシは泥の土間に額をつけるようにして音もなくすっと奥へかくれてゆく。市場の向うの田圃(サワ)では丁度田植が始まっていた。内地では三月だと云うのに、この南ジャワの山の上では田植が始まっている。
 柔い雲が田圃(サワ)の上でただようている。水田への道を、犂を白い牛につないだ原住民が四五人で歩いてゆく。原住民達は、何故か高声で話しあうと云う事をしない。良質の水田は幸福気に見える。なだらかな起伏をみせた田圃(サワ)の道ぞいに、カポックの木が並木になっている。所所の火焰木の赤い花も美しい。
 ディアナが起きてきた。手に私のつくってやった日の丸の旗を持っている。ワラシが小さいディアナを横抱きにするようにして賑やかな市場へ降りて行った。事務所(カントール)の二人の事務員がやって来た。スプノウ氏と、夫人のアシヤさんも起きている様子だ。私は部屋へはいり、タオルを持って、裏の水浴場へ行く。裏口にはもう下男(ジョンゴス)が来ていて、さかんに薪を割っていた。
 ここでは下男(ジョンゴス)は通いと見えて、朝、自転車でやって来るとすぐ薪割りから始め出すのだ。暗い台所ではかまどの火が燃えている。煤(すす)けた天井には、唐もろこしの束になったのが、いくつも、いくつも吊り下げてあった。日本の田舎の生活と少しも変りがない。狭い中庭には、黄いろいアラマンダーの花が、まるで月見草のように露(つゆ)に濡れてべっとりと咲いていた。薪割りの音は吸いつくような音をたてている。小学校のそばで小舎(こや)がけの飲食店をしているテラギアと云う寡婦(かふ)が、青いみかんのはいった籠をさげて下男(ジョンゴス)のところへやって来た。あたりには蟬が鳴きはじめた。外気は少しずつ暑くなり始めている。
 水浴(マンデー)場へ這入って行くと、かけいの水がひんやりとしていた。石造りの水槽には冷たい清水(しみず)があふれている。オートミルの空缶(あきかん)が桶のかわりになっている。紐に服を引っかけて冷たいしびれるような水を全身にあびる。
 昨日のことが思い出せないような、そんな呆(ぼ)んやりさになっている。水浴(マンデー)を済ませると、気持が少しばかり爽やかになった。――土間へ出て行くと、もう事務所(カントール)の石の段々から下の往来へかけては、石油の配給を受ける村の人達が瓶を手に持って、泥の上に静かに坐(すわ)って待っていた。誰一人話し合っているものもない。列を作って泥の上にべったりと坐って順を待っているのだ。二人の事務員は大きいドラム缶からジョウゴで瓶の中へいくばくかの石油をついで金(かね)を受取っている。銅銭は、昨夜トドンの坐っていた茣蓙(ござ)の上へ落葉のようにつもっていった。石油を貰った人達は丁寧に額に手をやって、中腰で列の前を通って道へ降りてゆく。
 女中(バブウ)のワラシは、郵便配達のトドンが好きであったが、気の弱いワラシは、トドンの姿をみるとすぐかくれていたけれど、トドンの妹のナンカが石油を買いに来ると、如何(いか)にもなつかしそうに走ってかえって、土間の上からにっと笑ってあいさつをしていた。
 中土間の暗い食堂では朝の食事が始まる。
 右端に腰をかけたスプノウ氏は、こんな貧しい家に、二週間もいていただいた事は光栄ですとのべる。まだ三十歳を越えたばかりの若い村長のスプノウ氏は、バタビヤの医科大学を出たのだとかで、ドイツ語もフランス語も達者だった。
 この村長の官舎は、泥の上に四本の柱をたてて、板だけで部屋割りをしてあると云ったそまつな建物であった。月のいい夜なんかは、壁の板戸から月の光がベッドの上へ縞になって流れこんだ。
 床は泥の固い土間(どま)になっていて、椅子を置くと、土のくぼみでぎくしゃくと動いた。夫人のアシヤは二十二歳で、仏像のような顔をした美しいひとであった。夫婦とも日本に非常な興味を持っていて、何とかして日本(にっぽん)へ行きたいものだと話していた。此の二月にあったスラバヤでの村長会議にも、沢山の村長達が日本へ行きたい話をしていたとスプノウ氏は素朴な表情で話す。日本へ行(ゆ)きたいと云えば、トドンがさかんに日本語をならいたがっているけれど、ほんの少しの会話でも教えてもらえないであろうかと夫人のたのみであった。トドンはプリガンの生(うま)れで、白人の別荘相手にささやかな食料品店を両親がいとなんでいたけれど、白人達はトドンの家から食物をとって一銭も払わないで逃げてしまったそうである。トドンの両親は大きい子供達を連れてこのトラワスの部落に戻って来て、いまはささやかな田地(でんち)を借りて百姓をしていると云う事であった。トドンは何処(どこ)かでしらべたとみえて日本(にっぽん)の医科大学にはいりたいと熱心に思いつめているのであった。

 唐もろこしを塩煮にした柔い粥(かゆ)と鶏卵(たまご)の目玉焼きとコォヒィの朝の食事はなかなかおいしい。このへんの住民は唐もろこしを常食にしているとかで、夫人はうでて乾かした唐もろこしの束ねたのを持って来て見せてくれた。
 十時頃になると市場はもう近在の買物客でいっぱいだった。私も市場へ降りてみた。果物は青いみかんがさかりとみえて油の浮いたような肌の柔い青いみかんが山のように積まれている。
 豆腐屋、肉屋、黒砂糖(くろざとう)屋や、嚙み煙草、農具、何でも、土の上に店をひろげている。大道の飲食店では焼肉(サッテ)に、凸凹の大きい果物ナンガを切り売りしているのもある。――トラワスの村では昼の食事が三時になっていた。今日は小学校の先生達へ、私は十二時から日本語を教えに行くことになっている。この山のなかにいる日本人(にっぽんじん)は私一人きりであったので、狭い村のなかはスプノウ家にいる私のことが相当問題になっている様子で、道であう人達は遠くから中腰になってしずかにえしゃくをして私(わたし)のそばを通ってゆく。
 市場の外の荷馬車のたまりで私はトドンに逢った。トドンは丁寧におじぎをして何か話しかけて来たい様子だった。
 「何なの(アパ)?」
 私が声をかけると、トドンはまぶしげな表情で、日本語の本を出して「今日は、よい、お天気です」と云った。私は瞼(まぶた)のおくが熱くなった。チャンパクの黄いろい花の匂(におい)がただようている。
 紺の洋袴をはいた女が煙草を吸いながら、市場へはいって来た。爪を紅(あか)く染めているのが、此の山のなかでは時代おくれに見える。
 市場の奥にある綿布(カイン)商人のところへ云って、声高(こわだか)にしゃべりながら布を買っている様子だ。誰も此の不作法な女達を注意している者はなかった。私はトドンと畦道(あぜみち)を歩いた。トドンは古くなった黒のビロード帽子をかぶって、白い襯衣に青竹色のサロンを腰に巻いていた。ねんどのように柔(やわらか)い畦の上は裸足にならなければ歩きにくい。私は白のゴム靴をぬいで裸足(はだし)になった。トドンは吃驚(びっくり)していた。土地の女達がするように、私も裸足だと云うと、トドンはにこにこ笑った。
 「郵便局はどこなの(ディマナ・カントル・ボス)」
 とたずねると、トドンは、プリガンまで行(ゆ)かなければ本局はないのだと話していた。
 畦の上を蜻蛉(とんぼ)が飛んでいる。田圃(サワ)の水は小波をたてていた。田から田へ流れあっている水は畦(あぜ)のきわにリボンのような小川をつくって爽爽と窪地の方へ流れていた。川岸には匂(におい)のいい芹のような草がしげっていた。裸足で歩いているのは気持(きもち)がよかった。トドンも勿論裸足である。
女中(バブウ)のワラシを好きかとたずねると、トドンは眼を染めて、
 「はい(ヤア)‥‥」と小さい声で云った。

 ワラシは百姓の娘で、家が貧しくって、十六にもなって、まだ前髪を切る式の金(かね)も出来ないのだけれど、私もワラシもまだ若いのだから一生懸命働きさえすれば、神様は幸福を下さいますでしょうと云うのである。トドンは白人相手の商売をしていただけに、英語も、フランス語も少しばかり話した。私とトドンの会話は不思議な力で通いあっていた。それは全く不思議な力で。二人の間に、もどかしい話題が出ると、二人は畦道(あぜみち)に立ちどまって、両手で言葉の意味をつくる。
 トドンは私を何処へ連れてゆくのか、黙って山のなかへ這入りはじめた。山道へかかるところどころの芝生の広場には白人の別荘があったりした。いまは住むひともないと見えて、庭には草がはびこったままだ。
 途中から、村の顔なじみの男の子が二人私の後について来た。トドンは私の靴を持ってくれた。子供達は野花を摘んでは私のところへ持って来る。
 「何かうたって(ニャニ・ニャニ)」
 私が歌をせがむと、男の子たちは、ミヨ、トウカイノ、ソラ、アケテ、と歌いはじめる。南ジャワのこのような山の中で私はインドネシヤの子供の口から祖国の歌を聴くのだ。祖国は遠いけれど、祖国の歌はこのようなところまで飛んで来ている。
 三キロばかり深い森のなかへ這入った。小道(こみち)を黄いろい水蛇が走り去る。
 「このさきに、空から降って来た仏陀(ぶっだ)があるのです」
 トドンの説明は、私には一寸わからない。空から降って来た仏陀、私はなおも一心に苔で
滑(すべ)っこくなった山道をあえぎながら登った。薄いジャケツを着ているのだけれども少しも暑くない。
 オランダ時代の円いトーチカがある。草の中に鍋を伏せたようで不気味であった。こんな山の中にもトーチカがあったのかと思う。暫くゆくと、十畳敷位(ぐらい)の巨きい石のかたまりが樹間に見えた。
 トドンが静かに額に手をあてて祈った。
 裏側は屹立した山肌で、一寸した窪地のなかへ、胸から上だけの仏像の顔が空を向いて横たわっている。そばへ寄ってゆくと、小山のように大きい石の顔である。柔和にみひらいた顔が、山の中の小暗いところだけに気持がわるい。胸のゆるい窪んだところには苔色の水がたまり、青い空の色がうつっていた。
 全く、空からでも降って来なければ、このような落ちかたはしないであろう仏陀の顔を私
わたしは暫く眺めていた。トドンは、仏陀の蓮の花のような耳へ唇を寄せて祈った。私も山ぎわへまわって、左の耳へ祈った。トドンは両手で巨きい石仏の首へ手を巻きつけた。トドンはそうする事によって、若い憂悶を慰さめられている様子だった。生気をとりもどしたような表情で子供達をからかい始めた。
二三日して、トドンがスプノウ氏や私に別れを告げに来た。スラバヤの造船所の人夫に傭(やと)われていくのだと云うことである。
 スラバヤの港では日本の船がどんどん造られている。トドンは夢を持っているのだろう。日本船(にっぽんせん)をつくるところへ行って遠い日本の空気を吸いたいのであろう。
 女中(バブウ)のワラシはトドンが村からいなくなっても少しも悄気(しょげ)てはいない様子で、相変らず朝は五時に起きてディアナを守りしていた。ワラシは時々小さい声でパントウンを口ずさんでいた。美しい声であった。
 夕方になると、椰子油(やしゆ)をとぼした飲食店のテラギアの家が、村の若い衆で賑(にぎ)わった。砂のようなコォヒィに羊のサッテを食べて、青年達は日本の話をしている。日本(にっぽん)はどんなに大きく強い国だろうと云うことを。
 私はだんだんトラワスの生活にも馴(な)れて来た。村長から小馬をかりて、山越えをしてプリガンの町へも行ってみた。
 白人の別荘地のようなプリガンの山の町はひっそりとしていた。水田(サワ)はどんなところにも開墾されている。火焰木や、いかだかずらの花にかこまれた白人の別荘だけが死んだように静かだけれど、そんなものにはかかわりもなく、百姓達は、神のあらたかなめぐみのみを信じてせっせと田園で働いているのであった。
 今年は天候の工合がよいので、このままでゆけばまず豊年であろうとスプノウ氏が話していた。
 山では陽がはいるのは九時頃である。黄昏(たそがれ)はみじかいけれども、暗くなるまで、はっきりとした明るさがつづく。その黄昏前にはかならずひどいスコールがあった。米のとぎじるを流すような沛然(はいぜん)とした雨が降り、凄い稲妻が光り、雷鳴がした。ペナングアンの山も雨煙にかくれ、庭先の桃色の夾竹桃の花だけが水しぶきの中で鮮(あざや)かであった。
 ワラシは土間に坐って雨にみとれている。
 スプノウ氏夫妻は部屋へ引っこんでしまう。私も雷にへきえきしてベッドへ逃げこむ。台所では年をとった女中が鶏を締めている。一時間もすると、幕を引いたように緑色に光ったペナングアンの山が見えひぐらしが鳴きはじめるのだ。
 トドンは二三日して、日本字((にっぽんじ)で書いたハガキを私によこした。線の面白い占いのような字であった。スラバヤで働きながら日本語をならっている由である。

 毎晩、夜更(よふ)けてから、トラワスの村に木時計は鳴っていた。にぶい打音をきくと、いつかの夜明けのように、トドンが茣蓙の上にうずくまっているような気がしてならない。
 私は小学校(スコラ)の先生達に、毎日、日本語を教えに通(かよ)っていた。小学校のかえりに、私は丘の上の不幸な木である榕樹(ワイリンギン)の下で涼をとるのもまるで日課のようになった。涼をとりながら、日本の友人知己の事を考え、思いに耽(ふ)けることが唯一つの愉しみであった。
 村では誰もここでは涼まない。夜の神様が犂星や、南十字星を連れて来るまでにはまだ五六時間も、此の村は明るいのだ。
 此の村へ来る郵便配達は、若いトドンのかわりに、もうかなりな年配の背の小さい男が、半洋袴をはいて、ヘルメットをかぶって、裸足でくばって歩くようになっていた。名前は何と云うのか、どこから来るのか知らない。榕樹(ワイリンギン)の下の私に遠くからえしゃくをして、プリガンの方へ小走(こばし)りに去ってゆくのである。

(二)水田祭
 小さい裸馬に乗って、石ころ道を下ってゆく。みがきこんだ青い空に神話的な積乱雲がむくむくと小高い田圃(サワ)の上に出ている。いろっぽい風情(ふぜい)をしたいかだかずらの紫紅の花が土民の家の石崖の上に咲いている。トラワス村から、プリガンの町へ抜ける間道で、道幅は人が二人位並んでとおれるほどな狭さである。馬のたづなを持っているのはキホイと云って、少しばかり耳の遠い気だてのいい男であった。途中の土民の家では、どの家(うち)も子沢山で、子供達は裸で遊んでいるのもいた。私の馬は時々石ころにつまずきそうになる。栗色の肌が濡れたように汗で光って来た。馬も暑いのであろう。どこまで行っても田圃(サワ)のせせらぎの音がして爽涼とした小波のような風を耳に伝える。
 田圃(サワ)で働いている人達は腰をのばして馬の上の私(わたし)の方へ挨拶をしてくれた。もの静かな表情は活人画の絵のように品がいい。これらの原住民達は東西南北の心得(こころえ)はあっても、その東西南北の遠い彼方(かなた)に、どんな国々があるのかは一向に知っている様子もない。ペナングアンの山を中心にして朝は太陽に礼拝し、夕べには月に祈りをささげ、南十字星の光りに家族の健康を祝いあった。何(なん)のくもりもない美しい月の出が一日一日盈(み)ちてゆくのは豊年の象徴であり、順調な旱天は村の人達の気持を陽気に明るくしている。川添(かわぞ)いのタミヤチンの部落へ着くと、「一、二、三、四、五、六、七、八‥‥」と先生が号令をかけている声がしている。ラジオ体操が始(はじま)っているのだ。日本語の号令が微笑をさそう。小学校(スコラ)の前にもいかだかずらの花が咲いている。馬から下りてキホイに馬をあずけて広場へはいってゆくと、若い校長先生がにこにこして出て来た。建物の中は納屋のように暗くて涼しい。教室の中に鶏がはいっていて、小さい子供達に追いまくられている。男の子はみんな黒いつばなしの帽子をかぶっている。
 教室を抜けて裏庭へ出ると、涼しい木蔭に椅子が二つ出ている。私は校長先生と時間の打ちあわせを済ませると、これからプリガンまで行ってみるのだと話した。薄い薬草の匂いのするコオフイが出た。私は来週の水曜から女の先生達にも日本語を教えることになっているのだ。村の若い先生達は日本語を習う事になかなか熱心である。校長先生は眼鏡をかけて白い背広を着て、腰には派手(はで)なサロンを巻いてサンダルを素足に引っかけていた。タミヤチンの小学校(スコラ)は窪地の仄暗い樹の間に建っていて原始的な小舎のようなかまえである。
 ラジオ体操はまだつづいている。
 やがて私は校長先生に別れをつげて、キホイの待っているかどぐちへ行った。若い校長先生はプリガンへの途中で食べるようにと云って、ランピュタンの実を五つ六つキホイに渡した。キホイは私達(わたしたち)の弁当のはいっている籠の中へそれをいれて馬のたづなを握った。プリガンへの道は広い自動車道路もあるにはあったけれども、近道の間道を行くには馬が一番いいのだと村長スプノウ氏の話である。裸馬の背に乗っていることは相当苦痛ではあったし、乗りつけない私(わたし)には何となく全身の神経がつかれてくるようで、少しずつ憂鬱になって来ている。
 四囲にはさまざまな小鳥が鳴きたてていた。遠くでは山鳩も鳴いている。まだこの坂を降りきって、四キロも行(ゆ)かなければならないのだそうだ。気が滅入って来て時々キホイの後姿を呆(ぼ)んやり眺めてみる。キホイは裸足で、よれよれの洗いざらしたサロンをみじかくバンドにたくしあげていた。右手で私の馬のたづなを握り、左腕には弁当入りの籠のつるをとおして、野花とむちを持って黙々と歩いていた。
 キホイが泥水をよけるたびに、白い野花は薄荷のように涼しく匂った。熱帯のめぐみをうけて、キホイの皮膚は健康な茶色に染って、馬の肌のように汗で濡れていた。田
圃(サワ)は一段ずつかさなるようにして片側の山道の向うへ展(ひら)けている。畦の小流れの水が絹のような音をたてて可愛く流れていた。昼近くになったせいか空の真上でじりじりと太陽は白い炎をあげて来た。そのくせ、田圃(サワ)の所々には人眼につかないところに暗いような木蔭をつくっておもいがけない美しい景色を見せている。大きい蜂がさっきから私達(わたしたち)のまわりをさきになりあとになりして追いかけて来ている。全く大きい蜂だ。遠くには平たい丘のような山々が重畳とつづいている。白い堤防には村の女達が洗濯物を地べたに干していた。この、なごやかな景色は、人の心をものがなしい思いにさそいこむ作用をおこさせるものなのか、私(わたし)もキホイもさっきから一言(ごん)もしゃべる必要もなく呆んやりしてしまっているのだ。ただ小さい馬だけが鼻息荒く時々ぶるぶると立ちどまって首を振っていた。
 キホイは土地の百姓であるけれども、子沢山なので、方々の田圃(サワ)に傭われて行ったり、時々は道案内にもたのまれたりするのである。力仕事の出来るさかりの年齢(とし)とみえて、たくましい肩つきには何となく力が満ちているように見えた。キホイは耳が遠いので、自分でも口数がすくなくて、何時も人を見るのに子供のようにまぶし気な表情をしていた。キホイは何(なに)を考えているのか、時々遠くの空を見上げるようにして歩いていた。小さい流水のそばへ来ると、四ヶ月半で伸(の)びきった稲穂は金色(きんいろ)のもうせんのように輝いて、ここでは一家じゅうがとり入れに忙わしそうである。キホイが畦に坐っている男に何か云った。ねばっこいしっとりした畦の土も汗ばんでいるようにみえる。畦と田圃(サワ)のさかいのくぼみに清冽な水が小波をよせて流れている。その涼しい流れに畦の男は足をひたして涼んでいるのであった。私(わたし)も疲れたので馬から下りた。のびのびとした気持になる。
 今夜は月の出を待ってこの村では米祭(こめまつ)りがあるのだとかで、キホイは両手をつかって説明をしてくれた。私はその米祭りをみたいと思った。七ツ八ツの子供が蜻蛉(とんぼ)をつかまえては袋に入れながら走って来た。蜻蛉は食用になるらしく、トラワスでも子供達が蜻蛉をつかまえていたのを見た。キホイは馬のたづなを握ったまま、流れに自分の足をひたして小さい声で畦の男と何か話をしている。背中の軽くなった小馬はのろのろと歩いて道ばたの草を皓(しろ)い歯でむしっていた。
 私はこの涼しい水ぎわで弁当を食べたいと思った。キホイから弁当入りの籠を受取ってうで鶏卵(たまご)や、芭蕉の葉に包んだ焼飯を出してキホイにも与えた。キホイは押しいただいていくら食べるように云ってもにこにこ笑ったままで食べようともしない。主人と下男が一緒に食事をするものではないとでも思い込んでいるのか、至って礼儀正しく、ただそっと私(わたし)に背をむけて椰子煙草を吸うだけである。
 田圃(サワ)はこまかに区分されて石段のように山の上までよく開けている。青い実をつけた蜜柑(みかん)の木が陽当りのいい窪地に群生している。西の空が少しばかり昏(くら)くなって来た。急に何(なん)とも云えない涼しい風が吹いてきた。狭い畦土の上を蜻蛉とりの子供が綱渡りのように腰をふらふらさせて谷の向う側の道へ歩いて行った。私は原住民のするように手で焼飯(やきめし)をたべた。
 四囲はねむたくなるような景色である。私の坐っている草の上には、黒い蛞蝓(なめくじ)のようなどろっと光った虫が一匹しずかに動いている。大きい雲はいつのまにか小さくちぎれ、風にゆられて浮動しはじめる。キホイが私の方をふりむいて「雨(ウジャン)ですよ」と云った。棹をさすようなかっこうで、空のすべてのものが全速力で東へ走ってゆく。急いで食事を済ませると私はすぐキホイに馬を連れてきてもらって道を急ぎはじめた。巨(おお)きなスコールの来る前ぶれだからだ。小さい村の入口にある二叉道まで来ると、曇った空からしのつくような雨が降りはじめた。私は馬から下りて、角店(かどみせ)になっている支那人の荒物屋の庇の下へ逃げこんだ。雨はすさまじい勢でごうごうと煙をあげて降りはじめた。私とキホイが雨やどりをしているきりで、原住民達は平気で雨の中を歩いている。ここからプリガンへは一キロ。坦々とした広い道が、急に文明の世界へ来たような感じである。雨はなかなかやみそうにもない。クレップ襯衣(シャツ)を着て黒いズボンをはいた番頭が暗い土間から椅子を持って来た。店の台の上には白砂糖や、小麦粉、干魚なぞが木箱に山盛りになって、そのどれもに蠅が真黒にとまっている。土間の陳列には日本製のセルロイドの玩具が少しばかり並んでいる。色眼鏡だの安全ピンだの、ハンカチ、そんなものがごちゃごちゃと並んでいる。
 三十分位もして雨は少しばかり霽れてきた。荒物屋では少しばかり買物をして、びっしょり雨に濡れた馬に乗ってプリガンの町へはいる。山間の美しい町である。山へ向った建物の大半が白人や華僑の別荘だけれども、いまはほとんど住む人もいない様子だ。とり入れをした稲穂をてんびん棒で荷なった百姓が四五人大急ぎでゆるい坂を登っていた。
 雨あがりの冷たい山の町は、壁や赤屋根の色彩が水ににじんでいる。ふっと、一軒の商い店に雨に濡れた日の丸の旗が出ていた。私(わたし)は暫く呆然となり、祖国の美しい旗にみとれている。
 道の片側にセメントで固められた溝にはまるで瀧(たき)のように激しい雨水が流れている。山の町のプリガンをまわって、もときた道へかえすと、私達は竹藪(たけやぶ)の小道から曲って田圃(サワ)への近道をとった。何処へ行っても竹の群生がある。キホイに竹を指差してたずねると「バンブウ」だと云った。馬来語に竹をバンブウと云うのだろうかと不思議に思った。内地では想像の出来なかったような幻想的なこの田園の景色が、私の遠征旅行を非常に勇気づけてくれる。このような田園の風土は人に烈しい感情をおこさせるものだ。粒々辛苦して日々を田畑に働いている原住民の姿には根強い土への執着がにじんでみえる。働かざるもの食うべからずの哲学を知るのだ。プリガンの町の姿よりも、私は田圃(サワ)に出てはるかに力のみなぎるものを感じて来た。
 キホイには四人の子供がある。四人とも男の子供だそうで、一番上の子供はもう何処へでも使い走りをしていた。キホイの家を一度たずねた事があったけれども、真暗(まっくら)い家の中には羊の仔と同居で、小柄な細君は終日子供を横抱きにしてキホイと田圃(サワ)に働きに出ていた。――早くかえって、私はキホイの案内で米祭りを見に行かなければならない。空はすがすがしく霽(は)れて今宵は美しい月の出が見られるであろうと楽しみである。月が出るごとに一ヶ月はすぎてゆく。私は南へ来て五度目の月の出を迎えた。マライで一度、ボルネオで二度、スラバヤで二度、そしてこのモジョケルトの山村で一度‥‥。村へはいると、シリイの袋を腰にした老人がキホイと挨拶をして通りすぎた。野良がえりの女達は正しい姿勢で頭に荷物をのせてさっさと行(ゆ)きすぎてゆく。律動的な動きが、どんなみにくい女をも美しく見せている。

 その夜、私(わたし)はキホイの案内でタミヤチンの部落(カンボン)に米祭りを見に行った。驚くほど大きい月の出である。椰子油を瓶の中へとろとろ燃やして露店を出している女達がいる。焼肉(サッテ)を焼く脂臭い煙がただよい、ドリアンの実や、ランピュウタンだの、ドクウなんかの果物を売っているところもある。にぶい太鼓や、ガムランの哀々とした音色が人の心をそそるようだ。キホイは小さい子供の手を引いていた。新しい派手な紅色のサロンを巻いてサラサの帽子をかぶっていた。田圃(サワ)では大きい蛍が飛び、ギターの太い音色のような食用蛙が啼いている。蛍は時々人ごみの中にも飛んで来た。山風(やまかぜ)は爽涼としていて、ペナングアンの山も影絵のように月夜の空にくっきりと浮び出ている。女達の髪油の匂いや、チャンパクの花の匂いが如何にも山村の祭らしい。豊饒な土の匂いもしている。その豊饒な収穫のよろこびが、こんなにも農村の人達のこころをかきたてて歓(よろこ)びの祭を天へささげるのかと、私(わたし)はこの初々しい米(こめ)の祭りの市を珍しく眺めていた。広場では裸足の女や男のロンギンが始まっている。ガムランは少しずつ高調子になって来た。何時の間にか、村長のスプノウ氏夫妻も私のそばにやって来た。月の空を夜鳥(よどり)が啼き渡ってゆく。芭蕉(ピイサン)の実を平たくして焙って売っているところには子供連れの女衆(おんなしゅう)ががやがやとおしゃべりをしている。短調なガムランの音色はいつまでもつづいている。私(わたし)は持って来たジャケツを羽織った。夜になると四囲は急に涼しくなり、秋の気配を感じる。蟲が啼(な)き、夜露が草木にきらきら光って来るからだ。
  ジカ ティダ カルナ ブラン
  マサカン ビンタング テモール ティンギィ
  ジカ ティダ カルナ トアン
  マサカン カミ ダタン クマリ
 ロンギンの踊りの群れからはパントウンの四行詩が唄われている。月もこの素朴な祭りにほほえみ給(たま)うたのか、雲一つなく青い光りは天上の湖かと眺められた。スプノウ氏の説明によれば、このパントウンの意味は、この世に月がないならば、いかでか高く東の星がまたたこうぞ、この世にあなたがいなければ、かく逢う二人もないものを、といった愛らしい歌だそうで、私は南国らしいこの歌にききほれていた。
 日本の山間の松林のように、到(いた)るところに椰子の木が丈高く繁り、月夜の椰子の木の風情は高雅でもある。私(わたし)はタミヤチンの区長の家の間で暫(しばら)く休ませてもらった。椰子油の灯火がにぶく人々の顔を照らしている。屋根の上の月光の方が椰子油の灯火よりも明るい。天井でちちちちと蜥蜴(とかげ)が啼いている。プリガンの町のように、白人の官邸の遺物一つもない浮世ばなれのした村の生活は、文明に汚(よご)れることもなく、自然風物を素直に受け入れている。オランダ時代の文明と云えば、此村(このむら)にもたった一つホテルをつくっていた。だけどそのホテルもいまは廃墟のようになってしまって、小人数のドイツ人が静養をしている位である。ドイツ人の飼っているボルゾイ種の大きい犬がよく村のあっちこっちでせっかちに吠えたてていた。爪を染めた白人の女達もどこかの別荘にいる様子ではあったが、村の人達はすべてに無関心だ。
 区長の家の土間には、田舎の電車の停留所のようにいろんな人があつまり、小さい声でささやきあっている。軈(やが)てぬるいコオフイが出た。夜道をかえる私の為に、椰子の葉で葺いた籠椅子が用意されている模様なので私はスプノウ氏にことわって貰った。村の人達と一緒に、夜の田圃(サワ)を私も歩いてかえりたかったからだ。
 祭はまだ続いている。二時頃までも続く様子である。区長夫妻はもう老年に近い人達であったが、ものごしが柔和で、幸福そうな家庭人に見えた。土間の庇を蛍が飛んだ。
 ロンギンを踊る村人達は、あとからあとからくりこんでくる。
 豊年を祝い踊りをささげるこの人間の美しさに光をますように、夜の自然すべては錦織りの布地のような背景をみせていた。
 軈て、女中(バブウ)がバナナの揚げたのを皿に盛って出て来た。バナナの天麩羅はボルネオでも食べたけれども、柔(やわらか)い歯あたりのこの揚物(あげもの)はなかなかおいしい。
 土間の竹張りの壁には、日本のポスターが貼ってあった。そのポスターの横に大きい世界地図がかけてあって、日本の赤い色だけがくっきりと私の眼に沁みる。
 区長は私(わたし)に新しい日本語の教科書を持って来てみせたりした。
 月夜の田圃(サワ)には月がくだけて光り、畦の道はしっとりとやわらかである。ガムランの音色が段々後へ遠くなってゆく。私達は小学校(スコラ)の前を通った。平べったい建物の中は森閑としていた。
村の家々には椰子油の灯火がとぼっている。暗い戸口で蹲踞(しゃが)んで話しあっている家族もいる。
 或る家の横では、家鴨(あひる)ががやがやとなきたてた。家鴨は盗人の番人だと何
(なに)かで読んだけれど、そうぞうしい家鴨のなき声に私達(わたしたち)はおかしくなってくすくす笑いあった。
 スプノウ氏が先頭になり、アシヤと私がつづき、あとはキホイ親子と村の人達が四五人だ。
 家へかえると、月はもうよほど高くなり、石崖の下のところまで女中(バブウ)のワラシが迎えに出ていた。私達はまた暫く、土間になったカントールで椅子に腰をかけて話しあった。
 土間の隅に村長の事物机が一つある。その机の後に、書類や書籍にはさまれて、細い台の上に大幅物(おおはばもの)の白木綿の布地がひとまき置いてあった。村のうちの誰かが死ぬると、死装束として、何尺かのこの白木綿が与えられるのだ。私はまだ、インドネシヤ人の生活様式についてのタブー(禁制)を何(なに)一つ知らないけれども、死んだ人に白木綿を巻いてやる風習をきいて、自分の国でも死装束にかたびらを着せる風習がつづいているのを思い親近(みぢか)なものを感じた。
 木綿が不自由なので、昔のように長いものを死装束につかう事が出来なくなったと云う話である。
 私は豊饒(ほうじょう)なジャワの土に就いて村長と話しあった。人口四千万以上の密度だときくジャワ全土の農村は、この人口をまかなうに充分であるのだろうかと思ったからである。一年中の季節に変化のないジャワの水田は、一定の時期もなく勝手に時を得て種を植えつける様子だ。
 火山の多いジャワの土は充分な太陽の光りと湿潤な大気によって羨ましいばかりの沃土(よくど)をつくり、収穫時にもなれば穂摘みのような稲刈(いねかり)をする。肥料はさほど施されなくても自然の火山灰が旨い米を実らせてくれるのだ。昔はボルネオへもいくらか米を出した事もあるけれど、現在では人口が多くて自給自足のかたちではないかと云う話だった。
 オランダ時代からの農村の生活は、話にならぬほどみじめなもので、この村へ用事で来る白人は、別荘を建てるにいい場所を選びに来る位で、働く百姓の生活に就いて親身に観察したり話しあったりする白人は一人もいなかったのだそうである。スラバヤの官吏からまわって来るものと云えば税金のとりたての紙が来る位で、百姓は朝から夜まで働きどおしで、貧しい暗い住宅に住み、めったに米を食べる事も出来なかったと云う事だった。
 ニッパ椰子で葺いた暗い小舎のなかに百姓達は住んでいる。だけど、私には大理石の床をつくり、雪のように白いシーツの敷いてある部屋で扇風機にあたっている文明の生活を少しもいい生活とは思わなかったし、羨ましいとも思わない。何はなくても、最愛の家族とともに土に働く人は幸福だと思える。
 ペナングアンの上に出ている月の光りはますますさえて来たし、夜風は胴ぶるいがくるように寒くなって来た。私は挨拶をして部屋へ行く。スプノウ氏は夫人とランプを持って奥の部屋へ引きとって行った。耳の中がしびれたように静かな夜更けである。壁の豆ランプの下に枕とダッチ・ワイフを寄せて、私は馬来語の字引をたんねんに操っている。
 マカン、アンギン。風を喰うと云うのは、散歩の意味だそうだ。風を食べると云う語源はどこから出たのか、あまりにうがっていて、一人で微笑している。明日(あした)は十時から日本語を教えに行(ゆ)くのだけれど、私の瞼の中には、水曜日から教えに行(ゆ)く四人の若い女の先生の顔が何故だかふっと浮(うか)んできた。
 四人の女の人達は、誇張した表情もしなかったし、白人の女のように山ではく男ズボンなぞはきたがらなかったし、コンパクトも持たなければ、口紅一つつけてはいない。白い上着に絹のように柔(やわらか)くなったサロンを腰に巻いて、素足に革のサンダルを引っかけているきりだ。髪に花をさしている人もいた。白人の文明に汚されないインドネシヤの女の服装は、世界的にも一番着心地がいいのではないだろうか‥‥。壁の表で急に木時計(ケンロンガン)が十二時を打った。耳を澄ましていると、あっちでもこっちでも木時計がにぶく鳴っている。私は色々な事を考える。

(「婦人公論」中央公論社、一九四三年九月・十月)

編纂にあたって
・旧字は、適宜、新字に改めた。
・旧仮名遣いは、適宜、新仮名遣いに改めた。
・振り仮名は一部を残し、省略した。
・送り仮名は原文どおりとした。
・本文中に、今日から見れば不適切と思われる表現があるが、原文の歴史性を考慮してそのままとした。

 以下は、林芙美子作「南の田園」のインドネシア語訳である。訳は、パヌジュ・セノアジ氏によるものである。

訳者紹介:
パヌジュ・セノアジ(Panudju Senoaji)、1973 年スラバヤ生まれ、インドネシア大学日本学科を卒業。現在、フリーランスの日本語インドネシア語の通訳翻訳に従事。

Alam Pedesaan Negeri Selatan
Hayashi Fumiko

Penterjemah:Panudju Senoaji

Alam Pedesaan Negeri Selatan [1]
Episode Todong

Bersamaan saat membuka mata, dari arah pendopo bagian depan terdengar bunyi kentongan dipukul sebanyak empat kali, tok, tok, tok, tok. Sejenak menyimak, kentongan di perlintasan jalan mengeluarkan bunyi pekak membahana ke sudut-sudut desa yang ditiup gemerisik angin malam. Nyala api semprong yang tergantung pada dinding redup memancarkan cahaya. Saya mengenakan baju kamar di atas baju tidur, pergi keluar kamar. Saya mendorong pintu besar yang rusak, pergi ke bagian depan rumah. Saat keluar ke pendopo, angin dingin subuh yang membuat menggigil tubuh berhembus menerpa. Bermacam aneka poster dengan huruf Jepang yang tertempel di dinding pendopo dikibar-kibarkan angin.

Pegunungan Penanggungan di depan pendopo belum terlihat jelas. Saat mau duduk di kursi keras rusak di pendopo, dari ruangan kantor, tempat yang permukaan tanahnya satu tingkat lebih rendah dari pendopo, seseorang sedang memberi salam, “tabik”. Saya dalam samarsamar kegelapan melihat Tudung, si pengantar surat sedang duduk diam berjongkok di atas keset.

Hari ini hingga jam enam pagi sepertinya giliran Todong memukul kentongan. Angin subuh pegunungan benar-benar dingin seperti menusuk-nusuk sekujur tubuh. Bintang-bintang temaram bersinar, namun entah mengapa udara begitu sangat dingin, padahal di sawah katak-katak terdengar sedang bernyanyi. Tidak lama lagi dari arah balik gunung, disertai tanda-tanda yang membawa datangnya dewa pagi, gelap pekat malam sedikit demi sedikit mulai pudar seperti dilabur air.

Suara batuk Camat Supeno terdengar datang dari dalam, juga suara rewel Diana anak tunggalnya yang berusia tiga tahun. Karena terasa dingin, baju kamar dari kain belacu saya tutupkan di atas kepala.

Sisi bagian gunung Penanggungan yang seperti gunung Fuji kecil mulai menjadi terang. Dalam gelap Todong menyulutkan api pada rokok daun kelapa. Karena tidak ada korek, terlihat dia memukul-mukulkan benda yang mirip batu untuk membuat api. Usia Todong masih sekitar tujuh-delapan belas tahun, namun berperawakan seperti orang dewasa, dan badannya juga tinggi.

Sedikit demi sedikit gelap mulai berganti menjadi terang. Pertama-tama yang terlihat jelas adalah bunga kyouchikuto[1] warna merah muda. Babu Warsih terlihat sudah bangun, terdengar suara grendel dapur sedang dibuka. Semalam hingga larut dini hari bunyi gamelan mengalun syahdu, sepertinya di Dusun Tamiajeng ada sebuah acara hajatan.

“Todong, kamu pergi ke acara hajatan?”, tegur saya . “Ya, Nyonya”, Todong menarik rokok dari mulut dan dengan hormat membungkukan badan. Kesantunan budi pekerti seperti ini apakah khusus hanya milik orang jawa, terkadang jadi merasa terharu. Mengenakan topi kain belacu yang tali ikatannya ditarik kuat ke belakang, apakah Todong juga kedinginan, seperti daruma [2] dia membungkus sekujur tubuhnya dengan sarung dari pundak hingga lutut. Hati menjadi hangat dan terasa nyaman berada di tengah orang-orang tulus yang rendah hati dan menjunjung tinggi sopan santun.

Kentongan adalah benda sederhana yang terbuat dari kayu kering sekitar satu ikken[3], digantungkan di pohon dan cukup ditabuh dengan alat pemukul kayu sebagai penanda waktu. Di desa manapun dapat dijumpai jam seperti ini. Di kantor camat, jika kentongan mulai dibunyikan, pasti akan diikuti oleh kentongan-kentongan lain yang ada di sudut-dudut desa. Bunyi kentongan di tempat camat merupakan tanda mulai untuk membunyikan kentongan. Di pulau Bali kentongan disebut Kulkul.

Surya, sang dewa matahari datang menunggang kuda emas yang berlari dari atas gunung Penanggungan. Todong bersujud di tanah memanjatkan doa pagi. Penduduk asli sangat kuat memeluk kepercayaan, bahwa semua benda yang ada di alam semesta adalah karunia dewata dan dengan polos seperti anak-anak menerima limpahan karunia tersebut.

“Nyonya, bagaimana, hari ini tidak pergi ke Tamiajeng? Disana ada juga kursi keranjang”, ucap Todong.

Tepat dua minggu saya datang di Trawas, sebuah desa pegunungan. Setiap hari menyenangkan, melihat buruh-buruh tani penduduk setempat bekerja di sawah, dan juga pergi ke Sekolah Dasar untuk mengajar bahasa jepang kepada para guru.

Di pinggiran desa Trawas terdapat sebuah pohon beringin besar. Siapa saja ketika lewat di bawahnya, akan melaluinya dengan cepat seperti berlari. Sepulang dari sekolah, saya suka datang ke bawah pohon beringin ini untuk sejenak mencari hawa sejuk. Penduduk asli desa mengatakan, pohon ini adalah pohon yang membawa sial. Berada dibawah pohon ini dalam waktu lama, katanya akan membuat roh-roh pohon menempel ke tubuh orang tersebut, tidak mau pergi, dan bermacam-macam kemalangan akan mulai menimpa. Namun saya suka pohon beringin ini, yang berada di tempat paling bagus untuk melihat pemandangan sekitarnya.

Surya, sang dewa matahari, mulai memancarkan cahaya pagi dengan begitu sempurna. Kentongan jam enam pagi telah ditabuh. Para perempuan berbondong-bondong menyeret kambing mulai melewati jalan yang ada di bawah bukit. Dari mulut mulut mereka keluar ucapan salam pagi “tabik”. Hari ini adalah hari minggu, hari akan dibukanya pasar pada sebuah tanah lapang luas yang berada di lembah.

Gunung Penanggungan dalam warna terong[4], begitu jelas dan terang menampakkan wujudnya.Sawah-sawah saling bertumpuk di atas gunung melukis sebuah lingkaran indah, bermandikan cahaya pagi mulai jadi bersinar dalam warna emas. Todong dengan hati tentram menyangkutkan alat pemukul kentongan pada dinding, lantas pulang ke rumah sendiri. Dengan ketinggian seribu enam ratus meter, Gunung Penanggungan benar-benar memiliki bentuk seperti Gunung Fuji. Karena letaknya persis di depan pendopo rumah camat, saya merasa seperti sedang melihat lukisan karya Hiroshige[5].

Suara ayam dimana-mana sedang mengabarkan waktu. Di pasar yang ada di depan, seorang lelaki datang membawa tumpukan barang yang dinaikkan di atas seekor kuda. Setelah lelaki itu, setelahnya lagi, dan lagi, para pedagang dari daerah sekitar seperti mengalir datang kedalam pasar membawa beraneka macam barang. Meski cuma ditutup atap dan hanya berupa pasar terbuka yang lenggang, namun dengan segera undian pembagian tempat sepertinya sudah dimulai.

Babu Warsih dengan bertelanjang kaki datang membawa kopi panas. Berperawakan kecil, meski baru berusia empat-lima belas tahun, raut mukanya yang tanpa ekspresi membuat terlihat seperti orang lanjut usia. Begitu melihat kopi panas, mendadak saya merasa lapar. Warsih duduk bersimpuh di atas lantai dekat kaki saya, menunggu permintaan saya untuk mengerjakan sesuatu.

Saya minta dia untuk mematikan lampu kamar, menjemur selimut, dan sedikit mencuci. Dengan membungkuk sangat dalam hingga dahinya seperti mau menyentuh lantai dan juga tanpa menimbulkan bunyi, Warsih beranjak undur masuk kedalam. Sawah yang berada di seberang pasar, tepat sedang mulai menanam bibit padi. Berbeda dengan di wilayah Jepang, bulan Maret di atas gunung Jawa negeri selatan ini sedang mulai menanam bibit padi.

Awan lembut menggelayut berarak di atas sawah. Empat lima orang penduduk berjalan menuju ladang membawa alat bajak yang diikatkan pada sapi warna putih. Entah mengapa para penduduk ini tidak saling bicara dengan suara keras. Sawah berkualitas bagus akan membuat hati bahagia. Sepanjang jalan di tepi sawah yang permukaanya sedikit bergelombang, berjajar deretan pohon-pohon kapuk. Di sana sini bunga pohon kecrutan (spathodea) yang berwarna merah juga indah.

Diana sudah bangun dari tidur. Tangannya memegang bendera Hinomaru yang saya buat. Warsih menggendong Diana kecil di samping dan pergi menuju ke pasar yang ramai. Dua orang pegawai kantor sudah datang. Pak Supeno dan istrinya Bu Aisyah juga sudah bangun. Saya masuk ke kamar, membawa handuk, dan pergi ke tempat mandi di belakang. Di pintu belakang rumah, pesuruh laki-laki (jongos) sudah datang, sedang sibuk membelah kayu bakar.

Disini nampaknya jongos pulang pergi dari rumah, pagi hari dia datang dengan sepeda, lantas dengan segera akan memulai memotong kayu bakar. Api tungku sedang menyala di dapur yang gelap. Pada langit-langit dapur yang penuh jelaga, beberapa ikat buah jagung tergantung menjuntai. Sedikitpun tidak berbeda dengan kehidupan kampung di Jepang. Di taman ruangan tengah yang sempit, bunga alamanda warna kuning yang mirip benar dengan bunga tsukimiso[6]basah oleh kabut pagi dan sedang mekar. Kayu-kayu bakar yang sedang dibelah menimbulkan bunyi yang menderit. Suami istri Teragia yang mengelolah warung makan kecil di samping sekolah, membawa keranjang berisi jeruk-jeruk hijau, datang menghampiri jongos. Di sekeliling serangga (tongeret) mulai berbunyi, dan udara luar sedikit demi sedikit mulai menjadi panas.

Begitu masuk kedalam tempat mandi, gemericik air sangat menyegarkan. Di dalam bak mandi yang terbuat dari batu, melimpah ruah air dingin jernih. Kaleng kosong bekas wadah bubur gandum dijadikan sebagai gayung. Setelah menggantungkan baju pada tali tambang, barulah andi dengan menyiramkan air dingin yang dapat membuat menggigil pada sekujur tubuh. Saya menjadi tercenung melamun seperti tidak mampu mengingat hal-hal kemarin. Selesai mandi suasana hati terasa menjadi lebih segar.

Saat keluar ke pendopo, dari undakan batu tangga kantor hingga ke bawah tempat orang lalu lalang, orang-orang desa dengan membawa botol di tangan, sedang menunggu pembagian minyak tanah, duduk dengan tenang di atas tanah. Tidak ada seorang pun saling berbicara. Mereka membuat barisan, duduk menempel di atas tanah menunggu urutan. Dua orang pegawai kantor, dengan menggunakan corong mengisi minyak tanah dari drum besar ke dalam botol-botol dan menerima uang. Kepingan uang-uang (berbahan tembaga) tersebut ditaruh di atas keset tempat Todong duduk semalam seperti daun rontok yang ditumpuk. Orang-orang yang sudah menerima minyak tanah, dengan sopan memberi hormat, lantas berjalan setengah membungkuk melewati depan barisan orang-orang dan turun ke arah jalan.

Babu Warsih menyukai Todong si pengantar surat. Warsih yang pemalu akan lari bersembunyi jika melihat Todong, namun saat adik perempuan Todong yang bernama Nangka datang untuk membeli minyak tanah, dia ganti berlari dengan perasaan kangen tersenyum menyapa dari atas pendopo.

Makan pagi dimulai di meja makan ruangan tengah yang gelap. Camat Supeno, yang duduk di sebelah kanan, menyampaikan bahwa sebuah kehormatan di rumah yang serba kekurangan ini dapat menjamu saya selama dua minggu. Pak Supeno adalah camat muda yang baru menginjak usia tiga puluh tahun, katanya lulusan universitas kedokteran di Batavia, dan mahir berbahasa jerman dan perancis.

Rumah dinas camat berdiri di atas tanah liat dengan empat tiang penyangga utama, merupakan bangunan sederhana yang hanya menggunakan papan untuk membagi-bagi kamar. Malam hari di kala bulan sedang indah, cahaya bulan menerobos masuk dari jendela papan pada dinding ke atas tempat tidur membentuk garis-garis bayangan hitam putih.

Lantai ruangan terbuat dari tanah liat keras, membuat kursi bergoyang tidak seimbang saat diletakkan di atas permukaannya yang tidak rata. Istri camat nyonya Aisyah adalah perempuan cantik yang wajahnya mirip patung budha. Pasangan suami istri ini sangat mempunyai minat terhadap Jepang, dan pernah mengatakan kalau bisa ingin pergi ke Jepang. Pada rapat camat bulan Februari di Surabaya, banyak camat bilang mau pergi ke Jepang, kata pak Supeno dengan raut muka terlihat lugas. Jika menceritakan mau pergi ke Jepang, sang istri meminta saya mengajarkan sedikit percakapan kepada Todong yang ingin belajar bahasa jepang. Todong lahir di Prigen. Orang tuanya membuka usaha berupa toko kecil yang menyediakan bahanbahan makanan buat orang-orang kulit putih yang tinggal di villa. Akan tetapi katanya orangorang kulit putih mengambil makanan dari rumah Todong tanpa membayar sepeserpun dan pergi begitu saja. Orang tua Todong mengajak anak-anaknya yang sudah besar untuk pulang kampung kembali ke Trawas. Sekarang mereka menyewa sebidang sawah kecil dan bekerja sebagai buruh tani. Todong entah dimana terlihat mencari tahu sesuatu, dia mempunyai keinginan sangat kuat untuk masuk ke universitas kedokteran di Jepang.

Makan pagi sangat enak, terdiri dari bubur jagung lunak yang dimasak dengan garam, telur mata sapi, dan kopi. Penduduk sekitar sini sepertinya biasa makan jagung sebagai makanan utama. Istri camat datang membawa seikat jagung kering di tangan dan memperlihatkan pada saya.

Menjelang pukul sepuluh, pasar sudah ramai oleh para pembeli dari daerah sekitarnya. Saya juga coba untuk pergi ke pasar. Sepertinya sedang musim buah jeruk hijau. Buah jeruk hijau yang permukaan kulitnya lunak seperti berminyak, bertumpuk menggunung. Penjual tahu, daging, gula merah, sirih, alat-alat pertanian, dan penjual apa saja menggelar dagangannya di atas tanah. Warung-warung makan yang berada di jalan besar, ada yang berjualan sate, dan ada juga yang berjualan potongan buah nangka, buah besar yang kulitnya benjol dan kasar.

Di desa Trawas makan siang menjadi jam tiga sore. Hari ini dari jam dua belas, saya mengajarkan bahasa jepang kepada guru-guru Sekolah Dasar. Oleh karena cuma saya sendiri orang Jepang yang ada di daerah pegunungan ini, keberadaan saya di rumah camat Supeno sepertinya sudah tidak asing dalam desa yang sempit ini. Saat bertemu orang di jalan, dari kejauhan mereka akan sedikit membungkuk dengan takzim dan lewat di depan saya.

Di tempat penambatan kuda di luar pasar saya menemui Todong. Dia membungkuk sopan datang menghampiri saya seperti hendak mengatakan sesuatu.
“Ada apa?” tegur saya. Dengan raut muka berseri, Todong mengeluarkan buku bahasa jepang dan berkata “Kyo wa yoi O tenki desu” (Hari ini cuaca bagus). Rasanya saya seperti mau menangis menahan rasa haru. Tercium semerbak aroma bunga cempaka kuning.

Seorang perempuan mengenakan celana panjang warna biru tua, sambil merokok masuk ke dalam pasar. Kuku-kukunya dicat warna merah, nampak seperti orang yang ketinggalan jaman di tengah gunung seperti ini. Perempuan itu pergi ke tempat penjual kain yang ada di dalam pasar, sambil berbicara dengan suara keras nampaknya dia sedang hendak membeli kain. Siapapun tidak ada yang peduli dengan perempuan tidak sopan ini.

Saya dan Todong berjalan di atas pematang sawah. Todong mengenakan kopiah beludru hitam yang sudah lama, kemeja warna putih, dan melilitkan sarung warna hijau muda di pinggang. Sulit berjalan di atas pematang sawah yang lembek seperti lumpur jika tidak dengan kaki telanjang. Saya melepas sepatu karet putih dan bertelanjang kaki. Todong terkejut dan senyum tertawa, saat saya bilang bahwa saya juga bertelanjang kaki seperti perempuan-perempuan kampung.

Waktu saya tanya, “Dimana kantor pos?”, Todong mengatakan harus pergi ke Prigen sebab kantor pusat ada disana.

Capung terbang di atas pematang sawah. Air di sawah membuat gelombang kecil. Air yang dialirkan dari sawah ke sawah pada samping pematang, membentuk sungai-sungai kecil seperti pita, mengalir sejuk menuju dataran rendah. Di pinggir sungai tumbuh lebat rumput mirip daun peterseli yang baunya enak. Terasa nyaman berjalan dengan telanjang kaki, tentu saja Todong pun bertelanjang kaki.

Waktu saya tanya apakah dia menyukai Warsih, dengan mata berbinar Todong berkata lirih,”Ya…”.

Warsih berasal dari keluarga miskin, anak perempuan seorang buruh tani, bahkan menginjak usia enam belas tahun pun belum mempunyai uang buat potong rambut. Saya maupun Warsih karena masih muda, asalkan giat bekerja, Tuhan pasti akan menurunkan karunianya, cerita Todong.

Berdagang dengan orang-orang kulit putih cukup membuat Todong dapat sedikit berbicara bahasa inggris dan perancis. Ada kekuatan aneh yang membuat percakapan saya dengan Todong bisa saling cocok, benar-benar kekuatan yang aneh. Di antara kami berdua jika muncul topik-topik pembicaraan yang dirasa mengganjal, kami akan menghentikan langkah di pematang sawah, dan dengan kedua tangan mengartikan kata-kata.

Apakah Todong hendak mengajak saya pergi ke suatu tempat, dengan membisu kami mulai masuk ke dalam gunung. Jalan yang menuju gunung dimana-mana terdapat villa-villa dengan halaman rumput luas milik orang-orang kulit putih. Sekarang tidak nampak orang tinggal di dalamnya, dan rumput di halaman dibiarkan dalam keadaan tidak terawat.

Di tengah perjalanan, dua orang anak lelaki kampung yang wajahnya sudah tidak asing datang turut serta berjalan di belakang saya. Todong membawakan sepatu saya. Anak-anak lelaki memetik bunga-bunga liar dan datang membawanya ke tempat saya.

“Nyanyi! Nyanyi!”, desak saya.

Anak-anak lelaki itu mulai bersenandung, miyo toukai no sora akete… (lihat lah, langit di laut timur yang membentang). Di tengah pegunungan Jawa yang ada di Selatan, saya mendengar lagu negeri leluhur dari mulut anak-anak Indonesia. Walaupun negeri leluhur jauh, lagu-lagunya terbang melayang hingga ke tempat seperti ini.

Sekitar tiga kilometer masuk kedalam lebat hutan, ular berwarna kuning lari menyingkir dari jalan setapak.

“Di depan sana, ada Budha yang muncul dari dalam lobang”.
Saya sedikitpun tidak mengerti penjelasan Todong, bahwa Budha akan muncul dari dalam lobang. Sambil tersengal-sengal, saya hanya fokus mendaki jalan gunung yang licin oleh lumut. Meski mengenakan jaket tipis, sedikitpun saya tidak merasa panas.

Terdapat sebuah gardu jaga bulat dari jaman Belanda, begitu menyeramkan, seperti panci yang ditengkurapkan ke dalam rerumputan. Di dalam gunung begini ada juga ya gardu jaga, batin saya. Sedikit pergi beranjak, di sela-sela pepohonan terlihat sebuah bongkahan batu besar berukuran sepuluh jo[7]. Todong dengan khidmat memanjatkan doa dengan mengatupkan kedua telapak tangan di atas dahi.

Sedikit melangkah masuk ke dalam sebuah cekungan yang sisi bagian belakangnya adalah permukaan dinding gunung yang menjulang, terdapat wajah patung Budha dari dada keatas sedang telentang menghadap ke langit. Saat menghampir lebih dekat, terdapat wajah dari batu besar yang seperti gunung kecil. Wajahnya penuh kehangatan, namun terasa jadi ngeri hanya dikarenakan berada di tempat yang suram di dalam gunung. Di bagian dadanya yang agak melekuk kedalam, tergenang air berwarna lumut yang terpantul bayangan warna biru dari langit.

Andaikan tidak turun dari langit sekalipun, pasti cara jatuhnya tidak akan seperti ini, sejenak saya memandangi wajah patung Budha. Todong menghampiri lubang telinga Budha yang seperti bunga lotus dan berdoa. Saya juga memutar ke bagian sisi gunung, berdoa pada telinga yang kiri. Todong melingkarkan kedua lenganya pada leher stupa Budha besar itu. Melakukan hal seperti ini dapat membuat Todong merasa terhibur dari penderitaan-penderitaan hidup masa muda. Dengan raut muka yang kembali bersemangat, dia mulai bersenda gurau dengan anak-anak.

Dua tiga hari kemudian, Todong datang ke pak Supeno dan saya untuk berpamitan akan bekerja menjadi buruh di pabrik pembuatan kapal di Surabaya. Di pelabuhan Surabaya makin banyak sedang dibuat kapal-kapal Jepang. Todong pasti mempunyai mimpi, pergi ke tempat dimana kapal-kapal Jepang dibuat, dan kemudian tentu ingin menghirup hawa udara Jepang nun jauh disana.

Meski Todong sudah menghilang dari desa, tidak membuat Babu Warsih kehilangan semangat sedikitpun, seperti biasa tetap bangun pukul lima dan mengasuh Diana. Warsih terkadang menyenandungkan pantun dengan suara merdu.

Saat hari menjadi petang, dengan terang api lampu minyak kelapa, rumah Teragia penjual makanan diramaikan oleh sekumpulan pemuda kampung. Sambil makan sate dan minum kopi seperti pasir, para remaja ini sedang membicarakan Jepang, tentang bagaimana Jepang sebuah negara kuat yang begitu besar.

Perlahan-lahan saya mulai terbiasa dengan kehidupan Trawas. Meminjam seekor kuda kecil dari camat, dengan melintasi gunung saya ingin pergi juga ke kota Prigen. Sama seperti wilayah villa orang-orang kulit putih, Prigen adalah kota pegunungan yang tenang. Di tempat manapun sedang dibuka lahan-lahan untuk mencetak sawah ladang. Hanya villa-villa orang kulit putih yang dikelilingi pohon kecrutan (spathodea) dan bunga-bunga melati, yang terlihat tenang seperti mati. Tetapi hal-hal seperti itu juga tidak ada sangkut pautnya, para buruh tani hanya percaya pada anugerah Tuhan yang menakjubkan dan tetap giat bekerja di sawah.

Oleh karena kondisi cuaca tahun ini bagus, dan jika ini tetap berlanjut maka tahun ini akan menjadi tahun kemakmuran, ucap camat Supeno.

Di gunung matahari terbenam sekitar jam sembilan. Senja memang singkat, namun masih terang dan jelas hingga hari menjadi gelap. Sebelum senja, pasti akan turun hujan sangat besar (squall). Hujan akan turun dengan lebatnya seperti mencuci beras. Kilat bersinar dan suara petir menggelegar. Gunung Penanggungan juga bersembunyi dalam pekat hujan, hanya bunga kyouchikuto di taman yang terlihat berseri-seri tesiram air hujan.

Warsih duduk di atas lantai, dengan takjub memandangi hujan. Suami istri Supeno mengurung diri dalam kamar. Saya yang sudah jemu dengan petir, berlindung ke tempat tidur. Di dapur pembantu perempuan tua sedang memlintir kepala ayam. Satu jam kemudian seperti layar yang digulung dimana sinar menimpa pada warna hijau, Gunung Penanggungan terlihat dan serangga-serangga tongeret mulai mengeluarkan suara.

Dua tiga hari kemudian, Todong mengirim kartu pos yang ditulis dalam huruf jepang kepada saya. Garis coretan hurufnya lucu seperti ramalan. Di Surabaya sambil bekerja juga karena sedang belajar bahasa jepang.

Setiap malam ketika hari menjadi larut, kentongan berbunyi di Desa Trawas. Saat mendengar bunyi kentongan ditabuh, perasaan seperti terbawa pada suatu malam yang lampau, tatkala Todong sedang jongkok meringkuk di atas keset.

Setiap hari saya pergi untuk mengajar bahasa jepang kepada guru-guru Sekolah Dasar. Sudah menjadi jadwal keseharian, sehabis pulang dari sekolah, saya akan mencari udara sejuk di bawah pohon beringin pembawa sial yang berada di atas bukit. Sambil menyejukkan badan, satu-satunya hal yang menyenangkan adalah hanyut dalam lamunan-lamunan memikirkan sahabat dan teman-teman di Jepang. Di desa ini siapapun tidak mau merasakan udara sejuk disini. Sampai dewa malam tiba membawa bintang-bintang, orion dan lintang selatan, lima enam jam lagi desa ini masih terang benderang.

Pengantar surat yang datang di dusun ini, pengganti Todong muda, adalah seorang lelaki sudah agak berumur yang bertubuh kecil, menggenakan celana pendek, memakai helm, berjalan telanjang kaki membagi-bagikan surat. Saya tidak tahu nama dan asalnya. Dari kejauhan dengan sedikit membungkuk kepada saya yang berada di bawah pohon beringin, dia berlari-lari kecil menghilang pergi ke arah Prigen. (Bersambung)

Alam Pedesaan Negeri Selatan (2)
Pesta Panen

Saya menunggang kuda kecil pergi menuruni jalanan berbatu. Di langit biru yang bening, awan gelap disertai guntur bagaikan dalam cerita-cerita mitologi bergumpal-gumpal melayang tinggi diatas sawah. Bunga melati ungu dengan tampilan menawan tumbuh pada tembok batu rumah penduduk. Dari desa Trawas ada jalan tembus kecil ke kota Prigen, jalan sempit dengan lebar yang bisa dilewati sekitar dua orang secara berjajar. Yang memegang tali kekang kuda bernama Kihoi, lelaki dengan perilaku baik yang telinganya agak sedikit tuli. Pada rumah-rumah penduduk di tengah perjalanan, rumah manapun ada banyak anak, juga ada anak-anak yang telanjang sedang bermain. Kuda saya sesekali terantuk bebatuan. Bulu kulitnya yang coklat jadi berkilauan, sepertinya basah oleh keringat. Kuda juga pasti kepanasan. Kemanapun melangkah pergi yang tertangkap telinga adalah bunyi desiran sawah dan semilir hembusan angin
segar.

Orang-orang yang sedang bekerja di sawah berhenti sejenak, memberi salam ke arah saya yang berada di atas kuda. Raut muka tenang yang mengambarkan kualitas prima manusiamanusia pekerja. Para penduduk kampung meski mempunyai pengetahuan tentang mata angin, namun jauh dibalik mata angin tersebut mereka sama sekali sepertinya tidak tahu ada negara yang bagaimana. Kehidupan mereka berkisar di seputar Gunung Penanggungan, di pagi hari menyembah matahari dan di waktu petang memanjatkan doa pada bulan, serta menyampaikan rasa syukur atas kesehatan keluarga pada cahaya bintang-bintang lintang selatan. Hari demi hari menjelang purnama, bulan muncul dengan indah tanpa satupun awan, ini merupakan tanda-tanda tahun kemakmuran. Cuaca cerah membuat hati riang penduduk desa. Begitu tiba di Dusun Tamiajeng yang berada di sepanjang sungai, “Ichi, Ni, San, Shi, Go, Roku, Nana, Hachi….” (1,2,3,4,5,6,7,8..), suara guru sedang memberikan aba-aba. Senam radio sedang dimulai. Perintah dalam bahasa jepang tersebut membuat saya ingin tersenyum.
Di depan Sekolah Dasar bunga melati sedang bermekaran. Turun dari kuda, saya menitipkan kuda pada Kihoi. Begitu saya pergi masuk ke dalam lapangan, kepala sekolah muda dengan tersenyum datang keluar. Di dalam gedung gelap dan sejuk, seperti ada di dalam nando (kamar kecil utk simpan barang). Ayam masuk kedalam ruangan kelas, sedang dikejar-kejar oleh anak-anak kecil. Semua anak lelaki memakai topi hitam tanpa pinggiran.

Melewati ruangan kelas saya pergi keluar, sesampainya di halaman belakang terdapat dua buah kursi di bawah teduh pohon. Begitu urusan janjian waktu dengan kepala sekolah selesai, saya bilang habis ini akan coba pergi ke Prigen. Disuguhkan kopi dengan halus aroma rempah. Saya dari hari rabu minggu depan akan mengajar bahasa jepang kepada guru-guru perempuan. Guru-guru muda di desa sangat antusias belajar bahasa jepang. Kepala sekolah memakai kacamata, mengenakan jas warna putih, bagian pinggang kebawah mengenakan sarung yang mencolok, dan menggunakan sandal pada kaki telanjangnya. SD Tamiajeng berdiri pada sebuah tanah yang rendah di antara pepohonan, sedikit gelap karena kurang cahaya dan nampak seperti sebuah bangunan kecil yang terbelakang.
 
Senam radio masih berlangsung. Tidak lama kemudian saya pamit kepada kepala sekolah, selanjutnya pergi ke pintu gerbang dimana Kihoi sedang menunggu. Kepala sekolah memberikan lima enam buah rambutan kepada Kihoi untuk dimakan di tengah perjalanan ke Prigen. Kihoi memasukkan buah rambutan itu ke dalam keranjang tempat kami menyimpan bekal makanan, kemudian memegang tali kekang kuda. Jalan besar ke Prigen yang bisa dilalui oleh mobil memang ada, namun pergi lewat jalan tembus paling bagus menggunakan kuda, cerita camat Supeno. Bagi saya yang tidak terbiasa, naik langsung di atas punggung kuda lumayan terasa nyeri dan membuat letih seluruh syaraf tubuh, sedikit demi sedikit perasaan menjadi murung.

Di sekeliling berkicau berbagai jenis burung-burung kecil. Di kejauhan burung perkutut juga berkicau. Setelah menuruni tanjakan ini, katanya masih harus menempuh empat kilometer lagi. Saya merasa jadi suntuk, dan terkadang termenung memandang sosok Kihoi dari belakang. Kihoi berjalan dengan kaki telanjang, sarungnya yang sudah sering dipakai berulang-ulang digulung pendek keatas menjadi ikat pinggang. Tangan kanannya memegang tali kekang kuda saya, dan lengan kirinya dijadikan gantungan keranjang yang berisi bekal makanan, memegang bunga liar dan cambuk, terus berjalan dalam diam.

Setiap Kihoi menghindari air lumpur, tercium aroma bunga-bunga liar yang menyegarkan seperti mentol. Mendapatkan karunia tropis, kulit Kihoi berwarna coklat yang sehat, basah oleh keringat seperti kulit kuda. Sawah-sawah dibuat bergunduk-gunduk secara bertingkat, pada sisi sampingnya dibangun jalan yang menuju ke gunung. Aliran kecil air di pematang menimbulkan bunyi laksana sutra, mengalun dengan indah. Mungkin karena menjelang tengah hari, matahari yang putih berpijar tepat diatas kepala terasa sangat menyengat. Padahal disana sini di tempat-tempat yang tidak terjangkau mata manusia, bayangan gelap pohon memperlihatkan pemandangan indah yang tiada tara. Lebah besar yang dari tadi berpindah-pindah tempat di sekitar kami, terus mengejar mengikuti kami. Lebah yang sungguh teramat besar. Di kejauhan gunung-gunung dempet berhimpitan seperti bukit yang datar. Di tanggul putih, perempuanperempuan desa sedang menjemur cucian di tanah. Pemandangan damai seperti ini apakah sesuatu yang mampu menggugah hati manusia untuk merenung. Saya juga Kihoi juga sedari tadi diam dalam lamunan masing-masing, tanpa perlu berbicara sepatah katapun. Hanya kuda kecil yang sesekali berhenti sejenak, menggetarkan keras dengus nafasnya dan mengibasngibaskan kepalanya.

Kihoi adalah seorang buruh tani di daerah sini. Karena anaknya banyak, dimana-mana orang menggunakan jasanya untuk menggarap sawah atau terkadang juga dimintai tolong sebagai penunjuk jalan. Di usia yang nampak sedang kuat-kuatnya melakukan pekerjaan berat, bahu kokohnya terlihat begitu penuh tenaga. Karena Kihoi kurang pendengaran, dirinya juga tidak banyak bicara. Setiap kali melihat orang, raut muka Kihoi seperti anak-anak yang terpesona oleh sesuatu. Apa yang sedang dipikirkan oleh Kihoi, kadang dia berjalan seperti menengadahkan pandangan ke langit yang jauh. Ketika sampai di tepi saluran air kecil, juntaian bungabunga padi umur empat setengah bulan bercahaya seperti hamparan warna emas, disini seluruh anggota keluarga nampak sedang sibuk memanen. Kihoi berkata sesuatu kepada lelaki yang terduduk di pematang. Tanah pematang yang lengket terlihat juga seperti ditetesi cucuran keringat. Pada cekungan pembatas antara pematang dan sawah, mengalir gelombang kecil air jernih dan sejuk. Saat lewat di atas pematang, kita dapat beristirahat dengan mencelupkan kaki di aliran yang sejuk itu. Karena juga merasa lelah, saya turun dari kuda, dan merasa jadi santai.

Malam nanti saat menunggu bulan muncul di desa akan diadakan pesta panen, Kihoi menjelaskan dengan menggunakan kedua tangannya. Saya ingin melihat pesta panen. Tujuh delapan anak menangkap capung, datang berlarian sambil memasukan kedalam kantong. Katanya capung dapat dimakan, di Trawas juga saya melihat anak-anak menangkap capung. Dengan tetap memegang tali kekang kuda, Kihoi mencelupkan kakinya sendiri di aliran itu dan berbicara sesuatu dengan lelaki di pematang. Kuda kecil yang punggungnya menjadi ringan, pelan-pelan melangkah dan dengan gigi putihnya mengunyah rumput di pinggir jalan.

Di pinggiran air yang sejuk ini saya ingin menyantap makanan bekal. Saya menerima dari Kihoi keranjang yang berisi makanan bekal, kemudian mengeluarkan telur rebus dan membuka nasi bakar yang dibungkus daun pisang, dan juga memberikan kepada Kihoi. Meski berkali-kali saya menyodorkan dan bilang agar makan, Kihoi hanya tersenyum dan sama sekali tidak memakannya. Apakah Kihoi beranggapan antara majikan dan pesuruh tidak sepantasnya makan bersama, sangat menjunjung tinggi sopan santun. Dengan membelakangi saya, dia hanya merokok daun kelapa.

Sawah-sawah dibagi secara rapi seperti undakan batu, dibuat sampai ke atas gunung. Pohonpohon jeruk hijau yang sedang berbuah tumbuh rimbun pada dataran cekung dengan pencahayaan matahari yang bagus. Di langit barat sedikit mulai jadi gelap. Tanpa bisa diungkapkan, seketika angin sejuk berhembus. Di atas tanah pematang yang sempit, anak-anak penangkap capung jalan seperti berjalan di atas tali tambang berayun ke kanan dan ke kiri, pergi menuju jalan di lembah seberang. Sama seperti penduduk kampung, saya juga makan nasi bakar dengan tangan.

Pemandangan alam di sekeliling seperti membikin kantuk. Di atas rumput tempat saya duduk, seekor cacing seperti namekuji (sejenis lintah) hitam, dengan badan kental mengembung yang mengkilat, bergerak tenang. Begitu tersadar awan besar pecah menjadi kecil-kecil, mulai melayang tersapu angin. Kihoi menoleh ke arah saya dan berkata, “Hujan”. Nampak seperti disodok dengan sebatang galah, semua yang ada di langit dengan sangat cepat dan kuat berlari ke arah timur. Buru-buru saya menyelesaikan makan, lantas segera menyuruh Kihoi membawa kuda dan bergegas mulai melanjutkan perjalanan. Tanda-tanda hujan besar akan turun deras. Begitu tiba di jalan simpang dua arah di pintu masuk sebuah desa kecil, dari langit yang mendung, seperti ditumpahkan hujan mulai turun. Saya turun dari kuda dan lari ke bawah atap warung kelontong milik orang cina yang berada di ujung jalan. Hujan sangat deras dan bergemuruh, mulai turun seperti asap yang membumbung. Saya dan Kihoi sekedar berteduh, sementara orang-orang kampung dengan biasa berjalan di tengah hujan. Dari sini ke Prigen ada satu kilometer. Jalan lebar yang datar, seketika membuat terasa seperti datang di dunia beradab. Hujan nampaknya tidak ada tanda-tanda akan redah. Penjaga warung yang mengenakan kaos dan celana hitam, mengambilkan kursi dari ruangan kamar yang gelap. Di etalase toko ada gula pasir, tepung terigu, ikan asin yang disusun bertumpuk-tumpuk pada kotak kayu, kesemuanya dihinggapi lalat hingga terlihat sangat hitam. Di lorong ruangan toko terdapat sedikit mainan berbahan seluloid buatan jepang. Barang-barang seperti kacamata hitam, sapu tangan, peniti, ditaruh secara berantakan.

Tiga puluh menit berlalu, hujan hanya sedikit membasahi. Di toko kelontong kami berbelanja ala kadarnya. Dengan menaiki kuda yang basah kuyup kehujanan, kami memasuki kota Prigen, sebuah kota indah yang terletak di antara gunung-gunung. Sebagian besar bangunan yang menghadap ke arah gunung adalah villa-villa milik orang-orang kulit putih dan cina, nam paknya sekarang hampir tidak ada yang menempati. Empat-lima orang buruh tani dengan menggunakan pikulan mengangkut hasil panen bergegas menaiki tanjakan yang tidak begitu tinggi.

Kota pegunungan yang dingin sehabis hujan, tembok dan atap berwarna merah yang habis terguyur air. Sekilas pada atap sebuah bangunan toko menyembul bendera Hinomaru yang basah oleh hujan. Saya jadi sedikit tertegun, terpukau keindahan bedera negeri lelulur.

Di dalam got yang dikeraskan dengan semen pada sisi jalan, air hujan mengalir deras seperti air terjun. Setelah berkeliling kota Prigen, kami kembali ke jalan semula sewaktu datang, dari jalan kecil yang penuh rimbunan bambu terus berbelok mengambil jalan pintas yang ke persawahan. Kemanapun melangkah pergi terdapat rerimbunan bambu. Sambil menunjuk, saya bertanya ke Kihoi. “Bambu” ucapnya. Merasa janggal, apa mungkin dalam bahasa melayu disebut dengan bambu.

Pemandangan sawah menakjubkan yang tidak terbayangkan saat berada di jepang, sangat memberikan keberanian pada petualangan saya. Alam pedesaan seperti ini adalah sesuatu yang dapat membuat orang merasa bersemangat. Dalam sosok diri penduduk kampung yang bekerja keras tiap hari di sawah dan ladang, nampak memiliki ikatan batin akan tanah yang sudah tertanam kuat. Saya jadi paham arti filsafat Hatarakazarumono Kuubekarazu (orang yg tidak bekerja tidak berhak untuk makan). Daripada kota Prigen, datang ke desa membuat saya jadi merasa dipenuhi oleh limpahan tenaga.

Kihoi mempunyai empat anak, semuanya adalah laki-laki. Anak yang tertua sudah kemana-mana diminta orang untuk mengerjakan apa aja. Satu kali saya pernah berkunjung ke rumahnya, dia tinggal bersama anak-anak kambing dalam rumahnya yang sangat gelap itu. Istrinya yang bertubuh kecil sehari-hari mengasuh anak, sedangkan Kihoi pergi bekerja di sawah. ――Bergegas pulang. Dengan diantar Kihoi, saya harus pergi melihat pesta panen. Langit terang benderang, malam ini bisa melihat munculnya bulan yang indah tentu menyenangkan. Setiap bulan purnama berarti sudah lewat satu bulan. Ini adalah bulan kelima sejak saya datang di wilayahwilayah negeri selatan. Malaya satu kali, Borneo dua kali, Surabaya dua kali, selanjutnya desa pegunungan di Mojokerto ini satu kali….Saat memasuki desa, perempuan tua yang membawa kantong siri di tubuhnya bertegur sapa dengan Kihoi dan lantas pergi. Perempuan-perempuan yang pulang dari ladang, dalam posisi sempurna mengusung benda-benda bawaan di atas kepala dengan cepat pergi berlalu. Gerakan-gerakan rapi dan beraturan dapat membuat perempuan dengan paras yang kurang menarik sekalipun akan terlihat cantik.

Malam itu dengan ditemani Kihoi, saya datang di Kampung Tamiajeng untuk melihat pesta panen. Bulan purnama besar muncul hingga hampir membuat terkejut. Ada perempuanperempuan menyulutkan api yang berkelip-kelip ke dalam botol-botol berisi minyak kelapa, membuka warung dagangan. Tercium asap aroma sate berasal dari lemak daging yang dibakar. Ada juga dijual buah durian, rambutan, dan duku. Bunyi pekak kendang dan tempo bunyi gamelan yang mendayu-ndayu menggugah perasaan tenang di hati. Kihoi menggandeng tangan seorang anak kecil, mengenakan sarung baru warna mewah dan topi bagus. Di sawah kunang-kunang besar beterbangan, dan katak-katak yang dapat dimakan berdendang seperti bunyi gitar yang berat. Adakalanya kunang-kunang terbang juga ke tengah kerumunan orangorang. Angin sejuk pegunungan berhembus segar. Gunung Penanggungan juga seperti wayang kulit yang timbul membentang jelas pada langit malam bulan purnama. Aroma minyak rambut para perempuan dan aroma bunga cempaka, benar-benar membuat suasana pesta desa pegunungan makin semarak. Tercium juga bau subur tanah. Kebahagiaan melimpahnya hasil panen membuat hati penduduk desa sedemikian ingin mempersembahkan sebuah perayaan kebahagiaan kepada dewata. Saya mengamati perayaan pesta panen yang begitu lugu ini dengan takjub. Pada tanah lapang, perempuan dan laki-laki dengan telanjang kaki mulai menari ronggeng. Tempo gamelan sedikit demi sedikit mulai naik. Tanpa disadari, suami istri camat Supeno datang di samping saya. Burung malam berkoar-koar melintasi langit malam bulan purnama. Di tempat jualan pisang yang dipipihkan dan dibakar, serombongan perempuan yang membawa anak-anak sedang riuh bercengkerama. Nada bunyi gamelan yang rendah sampai kapanpun terus bertautan. Saya membungkus tubuh dengan jaket yang saya bawa. Ketika hari berganti malam, udara sekitar mendadak menjadi sejuk. Terasa suasana musim gugur, dikarenakan serangga-serangga bunyi berderik dan embun malam memancarkan kilauan cahayanya pada tetumbuhan.

Jika tidak karena bulan
Masakan bintang timur tinggi
Jika tidak karena tuan
Masakan kami datang kemari

Dari kerumunan tari ronggeng dibacakan pantun, yaitu puisi empat baris. Apakah bulan juga memberikan senyumanya pada perayaan yang bersahaja ini, sepanjang mata memandang tak ada satupun awan di cakrawala. Menurut penjelasan camat Supeno, arti pantun ini adalah, jika bulan tidak ada di dunia ini bagaimana mungkin bintang timur akan tinggi bersinar, dan jika di dunia ini tidak ada engkau maka kita berdua tidak akan pernah berjumpa, katanya merupakan puisi cinta. Saya terkesima oleh puisi yang benar-benar sangat khas negeri selatan.

Seperti hutan pinus di pegunungan jepang, pohon kelapa dimana-mana rimbun tinggi menjulang, pada malam bulan purnama panoramanya juga mempesona. Saya dipersilahkan beristirahat sejenak di rumah kepala kampung Tamiajeng. Nyala api minyak kelapa menerangi remang-remang wajah orang-orang. Cahaya bulan di atas atap rumah jauh lebih terang dari nyala api minyak kelapa. Pada langit-langit rumah, cecak membunyikan suaranya, cêk,cêk,cêk,cêk. Seperti halnya kota Prigen, kehidupan desa begitu tentram dimana tidak ada satupun barang mewah seperti di istana-istana orang kulit putih, tidak juga dikotori oleh peradaban, hanya ikhlas menerima apa yang telah diberikan oleh alam. Menyebut peradaban Jaman Belanda, di desa ini cuma dibangun sebuah hotel, namun hotel itu juga sekarang sudah seperti reruntuhan. Hanya tampak beberapa orang Jerman yang menggunakannya sebagai tempat peristirahatan. Anjing-anjing besar jenis Borzoi peliharaan orang Jerman sering masuk desa menggongong galak di sana sini. Seperti juga terlihat pada sebuah villa, perempuanperempuan kulit putih mengecat kuku-kukunya, akan tetapi penduduk kampung tidak ada yang peduli.

Di ruang tamu rumah kepala kampung, berkumpul bermacam-macam orang seperti tempat pemberhentian kereta di pedesaan, saling berbisik-bisik dengan suara lirih, dan tidak lama kemudian disuguhkan kopi yang tidak begitu panas. Saya meminta camat Supeno untuk menolak sebuah kursi keranjang dibalut daun kelapa yang disediakan buat saya untuk melewati malam. Bersama dengan orang-orang desa, saya juga mau pulang dengan berjalan kaki melewati sawah.

Pesta masih terus berlangsung, dan sepertinya akan berlanjut terus hingga jam dua malam. Suami istri kepala kampung sudah berusia agak lanjut dengan pembawaan lemah lembut, mereka sepertinya keluarga bahagia. Kunang-kunang beterbangan di atap pendopo.

Orang-orang desa yang menari ronggeng, datang silih berganti tiada henti. Bagaikan disinari oleh keindahan manusia-manusia yang mempersembahkan tarian untuk merayakan tahun panen, seluruh alam semesta di malam hari memperlihatkan pemandangan seperti berbalutkan kain brokat.

Tidak lama kemudian babu menyajikan pisang goreng di atas piring. Meski saya sudah pernah makan pisang goreng di Borneo, gorengan ini terasa lunak di gigi dan sangat enak.

Pada dinding anyaman bambu di ruang tamu tertempel poster Jepang. Disamping poster itu tergantung peta dunia, mata saya tertuju pada warna merah yang dengan jelas menandai Jepang. Kepala kampung membawa buku baru pelajaran bahasa jepang dan menunjukan kepada saya.

Saat sedang purnama, bulan membagi rata sinarnya, jalan pematang nampak tenang dan lembut. Tempo bunyi gamelan lambat laun makin menjauh di belakang. Kami lewat di depan Sekolah Dasar, di dalam bangunan datar itu terasa hening dan senyap. Di dalam rumah-rumah desa, api lampu-lampu minyak kelapa masih menyala. Pada pintu yang gelap, ada juga keluarga yang berjongkok dan bercakap-cakap.

Di samping sebuah rumah, bebek-bebek menjadi gaduh. Saya pernah membaca bahwa bebek dapat mencegah pencuri melakukan aksinya. Suara bebek-bebek yang ribut membuat kami semua tertawa cekikikan.

Camat Supeno berada di depan, lantas disusul Aisyah dan saya, berikutnya Kihoi beserta anaknya, dan empat lima orang desa.

Saat pulang ke rumah, bulan sudah begitu tinggi. Babu Warsih keluar menyambut kami sampai di bawah gapura batu. Saya kembali duduk sebentar di ruang tamu yang menjadi kantor dan berbincang-bincang.

Di sudut ruangan terdapat sebuah meja kerja camat. Di belakang meja tersebut, terjepit di antara dokumen-dokumen dan buku-buku, di atas alas tipis tergeletak segulung kain katun putih yang berukuran lebar. Jika di antara penduduk desa ada yang meninggal akan digunakan sebagai kain kafan, dan dapat dibagikan beberapa jaku[8] kain putih ini. Meski masih belum tahu satu pun apa yang tabu (larangan) dalam cara hidup orang indonesia, mendengar kebiasaan membungkus orang meninggal dengan kain katun putih, saya merasakan ada kedekatan dengan kebiasaan yang masih berlangsung di negeri sendiri, yaitu kebiasaan mengenakan kimono pada orang meninggal. Ada cerita akibat kelangkaan kain katun, tidak dapat lagi menggunakan kain panjang untuk membungkus mayat seperti jaman dahulu.

Saya saling berbicara dengan camat tentang tanah Jawa yang subur. Saya pikir desa-desa di seluruh tanah Jawa cukup dapat memenuhi kebutuhan makan seluruh penduduk, yang katanya kepadatan jumlah penduduknya empat puluh juta orang. Di Jawa sepanjang tahun tidak ada perubahan cuaca dan juga tidak terdapat musim tertentu, kapan saja dapat bebas menyemai bibit tanaman. Tanah Jawa banyak gunung berapi, cukup sinar matahari, dan udara yang lembab menjadikan tanah begitu subur, membuat saya merasa iri. Juga pada saat musim panen, memotong batang padi begitu mudah seperti tinggal memetik tangkai. Tanpa harus diberi banyak pupuk sekalipun, zat asam alami gunung berapi akan menghasilkan beras enak.Dahulu pernah beberapa kali mengirimkan beras ke Borneo, namun karena saat ini jumlah penduduknya yang semakin banyak, sepertinya digunakan untuk memenuhi kebutuhan sendiri, demikianlah isi pembicaraan.

Kehidupan desa pertanian dari jaman Belanda, sangat lah memprihatinkan hingga susah untuk diceritakan. Keperluan orang-orang kulit putih datang ke desa sebatas untuk memilih tempattempat bagus buat mendirikan villa. Katanya tidak ada satu pun orang kulit putih yang penuh kepedulian mau membicarakan dan memperhatikan kehidupan buruh tani. Jika membicarakan tentang kunjungan kelililing pejabat pemerintah dari Surabaya, ceritanya akan berkisar pada datangnya kertas-kertas tagihan uang pajak yang membuat buruh tani harus bekerja dari pagi hingga malam, tinggal di rumah-rumah yang gelap dan miskin, bahkan makan beras pun jarang. Para buruh tani tinggal di gubuk-gubuk kecil yang gelap beratapkan daun nipah. Meskipun demikian menurut saya, mereka tidak memikirkan sedikitpun kehidupan yang beradab seperti rumah berlantaikan batu pualam, kamar dilapisi selimut seputih seperti salju yang dilengkapi dengan kipas angin, bahkan merasa cemburu pun tidak. Walau tidak memiliki suatu apapun, dapat bersama-sama dengan keluarga yang sangat dikasihi, membuat manusia-manusia yang bekerja di ladang ini merasa bahagia.

Cahaya bulan yang muncul di atas Penanggungan makin lama makin terang, angin malam yang dapat membuat tubuh menggigil makin terasa dingin. Saya pamit untuk pergi ke kamar. Bapak Supeno dan istri membawa lampu undur masuk ke dalam kamar. Dalam telinga hanya terdengar kesunyian tengah malam yang senyap. Di bawah temaram lampu semprong di dinding, dengan memeluk guling, dengan teliti saya membuka-buka kamus bahasa melayu.

Makan, Angin. Makan angin katanya mempunyai arti jalan-jalan. Dari mana istilah makan angin ini berasal, benar-benar sangat mengena, saya jadi tersenyum sendiri. Besok dari pukul sepuluh saya akan pergi mengajar bahasa jepang. Entah mengapa dalam kelopak mata saya senantiasa terlintas wajah empat orang guru muda perempuan yang dari hari rabu akan saya ajari. Empat orang perempuan dengan penampilan yang tidak berlebihan, tidak mengenakan model celana yang dipakai kaum lelaki untuk naik gunung seperti perempuan-perempuan kulit putih, tidak membawa bedak, dan tidak ada yang mengoleskan lipstik. Mengenakan pakaian atas warna putih, sedang pada bagian bawah dililitkan kain sutra halus sebagai sarung, menggunakan sandal kulit sebagai alas kaki, dan ada juga yang menyelipkan bunga di rambutnya. Pakaian perempuan Indonesia yang tidak dikotori oleh peradaban Barat, bisa jadi merupakan pakaian paling nyaman untuk dikenakan juga di seluruh dunia…..Di depan dinding mendadak kentongan ditabuh menunjukkan pukul dua belas. Begitu mendengarkan, disana juga disini juga kentongan berbunyi pekak. Saya memikirkan berbagai macam persoalan. (Bersambung)

(“Fujin Koron” September-Oktober 1943)

[1] Bunga Kyouchikuto adalah bunga perdu tegak dengan nama latin Nerium oleander .
[2] Daruma, boneka jepang dengan bentuk bulat, tidak memiliki kaki dan tangan.
[3] Satu ikken sama dengan 1.8 meter.
[4] Di Jepang, kulit terong kebanyakan berwarna ungu
[5] Utagawa Hiroshige atau dikenal juga dengan Ando Hiroshige (1797-1858), seorang seniman lukisan tradisional jepang (ukiyo-e).
[6] Nama latin bunga Tsukimiso adalah Oenothera tetraptera
[7] Satuan ukuran luas tatami, yaitu lantai berbahan jerami pada rumah tradisional jepang. Satu Jo sekitar 1.8m x 0.9m.
[8] Satu jaku sama dengan 30.3 cm

カテゴリー
 
 
Copyright 2021© Reexamination Of Japanese “Southern” Experience from The 1920s To 1950s