ソコロワ山下聖美(日本大学 芸術学部 文芸学科 教授)
1 地を描き、人間を描く
林芙美子の小説は、様々な土地が具体的に描かれ、土地から土地への移動を伴うことが多い。芙美子自身、生涯において実に多くの土地へと移動を繰り返しており、その経験が作品に色濃く反映されているのである。一方で、舞台としての土地は、作品において重要な役割を担っている。その地が描かれることには大きな意味があり、隠喩としての機能を果たしていると考えられるのだ。
芙美子文学においては、根ざしている土地を抜きに人間を語ることはできない。風土や土地柄がその人間を形成する。土地が変われば、風景、空気、食べ物、など、私たちが感受するすべてが変わる。肌感覚が変わり、匂いが変わり、味が変わる。こうした「体感」に敏感であった芙美子は、各土地を「体感」で捉えながら描写することによって、そこに生きる人間を描き出した。好んで様々な土地を旅したのも、「体感」によって、人間というものを深く考察し、表現するためであったのだ。
私はさまざまな土地を旅したけれど、結局は地球を信じ、空気を信じ、月を信じ、太陽を信じ、黴を発効させる地上のいとなみを信じます。人間の浅い知識でだけで生きようとする、信仰心のない仕事を、神はあわれんでいらっしゃると思います。〔1〕
こう述べているように、土地を通して地球を描き、地上の営みそのものを描いたのが林芙美子という作家の特徴である。もはや彼女にとって、土地こそが「信仰」となっていることがうかがえる。
とくに芙美子に影響を与えたのは、異国という未知なる土地だ。芙美子は自分自身の肌で感じた外国を作品に描くことが多く、戦中になると従軍という名のもとに中国や南方地域に赴き、作家としてどん欲に土地から得たものを表現している。
戦後、社会が変わり、すべての価値観が変わる中、彼女が書くものも変わりつつあった。流行作家として時代の要請を敏感に察知する芙美子であったが、敗戦という激動の変化を経ても変わらず、失われなかったのは、戦時中に南方の各地で得た経験、もっと言えば、「体感」であったのではないか。
南方を舞台にした作品の集大成としてあるのは『浮雲』(一九五一年 六興出版)だ。『浮雲』においては、互いに惹かれ合ってゆく男と女の本能が、仏印のダラットという土地の描写と濃厚にからみあいながら表出されてゆく。敗戦後、ダラットの地から去った二人の間に、もはや恋愛の炎が燃えさかることはない。最終場面において、失われた情熱を求めるように、南方の地を目指し、二人は当時の日本の最南端の屋久島へと赴くのであった。こうして、『浮雲』においては、登場人物を描く際に南方の土地が重要な役割を果たしている。南方体験がなければ『放浪記』と並ぶ代表作『浮雲』は誕生していなかったのであり、その意味で、戦後の芙美子文学において大きな影響を与えた土地は南方であると言える。
本稿では、南方のボルネオが舞台の一部となっている林芙美子の小説「古い風新しい風」の解釈を通して、戦後の林芙美子文学における南方体験の影響と重要性を確認してゆく。
2 テキストについて
林芙美子の作品については、いわゆる全集収録作品と、未収録作品に大別して捉えていくことが多い。この場合の全集とは、一九五一年から一九五三年の間に刊行された新潮社版全集をもとにつくられた文泉堂版『林芙美子全集』(一九七七年)である。全十六巻からなるこの「全集」は、実際には全集とは言い難く、収録されない多くの作品が存在している。しかし、全集未収録作品の全貌は明らかにされていない。すなわち、戦中戦後にわたり、芙美子がいかに多くの作品を描いてきたのか、その作品群についての正確な情報はいまだつかめていないというのが現状だ。現在、各研究者によって地道な調査が行われている。
「古い風新しい風」は全集未収録作品であり、雑誌「新風」に一九四七年十月から一九四八年五月まで、八回にわたり、連載されている。全文は、国立国会図書館にて閲覧が可能だ。生原稿は新宿歴史博物館に所蔵され、二〇一一年に開催された神奈川近代文学館の「没後六〇年記念展 いま輝く林芙美子」にて展示された。これを見た「古い風新しい風」の担当編集者であった平林敏彦は「林芙美子について」〔2〕の中で、「新風」という雑誌の情報を中心に執筆当時の状況を振り返っている。こうして「古い風新しい風」は半世紀以上の時を経て、研究者の間で日の目を浴びることとなったのである。本稿では、一般にはほぼ知られることのないこの物語を読み解きながら、林芙美子文学における本作品の位置づけを行ってゆきたい。
3 「退屈な」ボルネオ
「古い風新しい風」に描かれる土地は、「H県のこの海辺の、O市」(尾道)、東京、ボルネオ、北信州のR、である。これらは、林芙美子の実人生において重要な土地だ。学生時代を過ごした尾道。亡くなるまで暮らすこととなる東京。戦時中に従軍して視察に訪れたボルネオ。戦争末期の疎開先であった信州。これらの土地の中でももとくに、作品において鮮烈に印象深く描写されるのがボルネオである。
ボルネオを描いた他の作品に「ボルネオ ダイヤ」(「改造」一九四六年六月号)がある。「ボルネオ ダイヤ」は戦中のボルネオ・バンジャルマシンにて、日本人男性を相手に、自らの身を捧げて商売を行う日本人女性を描く物語だ。女主人公・珠江と逢瀬を重ねる真鍋は、内地に妻を残し、「N殖産会社」の社員としてボルネオに赴任する身である。一方で「古い風新しい風」にもまた、「N殖産会社」に勤める男・嘉隆が登場する。嘉隆はボルネオ赴任を控え、物語の女主人公・和子と結婚し、共にバンジャルマシンにて生活をするものの、妻だけが東京へと戻り、一人でこの地にとどまることとなる。「N殖産会社」の男性をはさみ、「ボルネオ ダイヤ」では愛人の側から、「古い風新しい風」では妻の側から描かれる両作品は、反転する構造をもっていると考えられる。
「古い風新しい風」の女主人公・和子は、東京の出身で、「津田の英語塾」を卒業した後に、「H県O市」(広島県尾道市であろうと思われる)の女学校にて英語教師をしている。林芙美子は、幼少期における各地を転々とする生活の末、尾道に辿り着き、小学校生活を送ったのち、女学校に進学した。約六年を過ごした「H県O市」は、芙美子にとっての青春の地だ。物語には、和子の教え子で、恋愛の果てに上京への願望を抱く春江が描かれるが、彼女もまた芙美子自身の若き日が投影された人物であろう。
尾道から東京へと一時帰省していた和子のもとに、突発的に縁談話が舞い込む。多少の躊躇はあったものの、見合いの話を受け、ボルネオ赴任が決まっていた嘉隆と結ばれた和子は夫婦共々日本を後にする。こうして、異国情緒に満ちた南方での生活がスタートする。そもそも「どんな男かは知らないけれども、和子は、ボルネオと云うところに心が誘われた」とあるように、ボルネオへ行ってみたいがために、和子は嘉隆と結婚を決意したようにもみえる。
では、和子が多大な魅力を感じるボルネオは、テキストにおいてどのように描かれているのか。芙美子は、南方時代に体感したボルネオの風景を、体験したものでなければわからない独特の「体感」をもって描いている。
バリト河口の濁水をのぼって、マングローヴの原始林のなかを、ゆっくり船が走っているのは、旅づかれのした和子には、耐えがたい旅愁をそそられた。賑やかな所から、急に、原始的な淋しい土地へ来たせいか、和子は、空想していた處とは遥かに遠い土地へ来たような気がした。(中略)
バンヂャルの朝夕は退屈なものであった。ああこれが心に描いていたボルネオの景色だったのかと、添寝の白い蚊帳のなかに、子供に添乳しながら、深い溜息をつく。
熱帯の土地は、匂いや音や、ものうさが肉体をむしばみ、そろそろ虚脱の徴候が神経をがりがり噛みくだく。〔3〕
ボルネオは「虚脱」するほど「退屈」であるという。この地の退屈さは、そのまま嘉隆に対する「盛り上がりのない」感情へとつながっていく。つまりボルネオの土地は、嘉隆という一人の男の存在とオーバーラップしており、この地を描くことは、嘉隆との生活の間に漂うものを表現することへとつながっていく。それは当時の和子にとって、とにもかくにも「退屈」なものであったのだが、後に、東京に戻った彼女は次のように回想している。
ふっと、嘉隆の姿が心に浮かぶ。太陽の輝くボルネオの、バンヂャルの日々がいまごろになってしみいるようになつかしかった。大きな旅人椰子の扇子を広げたような木々に、白い椅子に凭れている嘉隆のやつれた姿が思い出される。〔4〕
ボルネオの地を回想することは、嘉隆を懐かしむことそのものであり、土地を描くことと、人間を描くこととの関連がうかがえる。
4 ボルネオの子・南美子
ボルネオにおける「頭も體すべてがしびれ」るような、たまらない退屈の中、運転手のサオジンにほのかな誘惑を仕掛けてみたり、教師時代の同僚であった金山登を夢に見たりと、和子の本能は、雄隆から得ることのできない何かを求め続ける。このような状況の中で描かれるのが、按摩を頼む場面だ。
和子は退屈だったので、女の按摩を頼んでみた。若い肉体はようしゃもなく刺激を求める。年をとった女按摩は、和子を裸にして、その背中に椰子の油をべたべたに塗りつけた。指の先きで渦を描くように肌が押される。言葉一つ交すでもなく、黙ったまま按摩がつづけられている。シーツの上に大判のタオルを敷いて、腹這いになっている一つの姿體、この體はいったい誰のものだろう‥‥。(略)
體を揉ませながら、和子は自分のそばに寝て、ぢいっと天井をみている子供の横顔を眺めながら、この子供はきっと感情のない女にそだつかも知れないと苦笑する気持ちだった。〔5〕
全身をボルネオの地にゆだね、肌感覚そのもので土地を感じながら、この身体は誰のものだろうと問う和子。彼女は自らの意識と身体を切り離し、「誰かのもの」として客観的に捉えることにより、身体とボルネオの地との一体化を描いている。和子の身体は、嘉隆の妻としてのそれであるのと同時に、ボルネオの地そのものと合体するそれであるのだ。芙美子はエッセイ「作家の手帳」の中でボルネオについて、
熱帯の爛とした自然のいとなみは、さながら現世の童話だと思いました。千古の原始林はたっぷりと水をたたえて、黒々と繁殖しているし、その中に生きている数種類の民族は、蝶や花と同じような生殖のしかたで素朴であった(略)〔6〕
と記し、「自然も人も一つにとけてたわむれあって」〔7〕いると述べている。つまりこの地では、人と自然とが密接なつながりを持ちながら生が営まれている。風土と人間との生々しい関わり、これを芙美子は、先の場面において描いたのである。そして、自然と人間との密接なつながりの中に生まれたのが、和子のそばで寝ている子供・南美子だ。まるで、ボルネオと自らの身体を通して生まれてきたような存在こそが「南の美しい子供」の意味をもつ、この赤ん坊なのである。
「ボルネオ ダイヤ」においても、女主人公・珠江が按摩を頼む場面がある。
球江は裸で白い蚊帳のなかに腹這っていた。長い枕のようなダッチワイフに両足をのせて、まるで蛙を引き伸ばしたようなかっこうでジャワ人の女按摩に躯を揉んでもらっていた。女按摩は球江の躯じゅうに椰子油をぬるぬると塗りたくりながら、固い掌でゆるくのの字を書くようなしぐさで、油で濡れている背中を揉んでいる。大判のタオルに顔を押しつけて、珠江は手離した子供のことを考えていた。〔8〕
ここでもまた、按摩の最中に子供についての記述が現れる。全身の肌感覚の表現の末に表出されるのは、どちらの作品においても、子供の姿である。しかし「ボルネオ ダイヤ」の場合、珠江は自らの身体を通して生まれた子供に会うことさえかなわない。ここで、子供に代わるものとして存在するのが、ダイヤモンドである。「柔らかい女の肌」を連想させるものとして描かれる一方で、「もう一度明るいところで、ダイヤモンドをしみじみと眺めた。ふっと、何の関係もないのに、別れた子供の顔が眼に浮んで来た」というように、子供を連想させるものとしても記されている。ダイヤモンドはボルネオの土地から採掘されるものであり、ボルネオの土地が生んだものの象徴であると考えられるのではないか。
5 金山という男
ボルネオで南美子を生んだ和子であるが、母親の死去の知らせをきっかけとして、夫を残して帰国する。実のところ、和子の心にあるのは、夫ではなく、尾道の女学校時代の教師仲間・金山登であったのだ。「美校を出て二年目に、胸を病んで、田舎の女学校に赴任して」来た金山は、繊細な性質とその風貌もあいまって、生徒たちからも人気を得ている絵の教師であった。生徒たちだけではなく、和子も、そして、同僚の秋子も、金山に好意を寄せていた。金山自身も二人の好意を無碍にすることなく、東京帰省中にはそれぞれ二人と密会する機会を得ている。
和子が嘉隆と結婚した後、金山は秋子と結婚する。一方で、ボルネオから帰国した和子を待ち受けていたのは、アメリカとの開戦、戦況の悪化、「北信州のRと云う山の中」への疎開という厳しい現実であった。「自殺の一歩手前まで追いこまれたような人生に耐えがたい思い」で生活を続ける和子であったが、夫の嘉隆はボルネオからいまだ戻ることはない。和子の不安は増すばかりである。
こんなときに思いがけなく現れたのが金山だ。満州の女学校に赴任している最中に、妻の秋子を急性肺炎で亡くした金山は「糸をたぐり寄せられるような気持で」和子を尋ねにきたのだという。金山は、炬燵の中で、和子との再会を次のように感じている。
金山登は膝頭がやっと暖まって来た。人間は何時でもその環境に応じて自然に変化出来る反応を持っているものだと金山は膝頭の暖気にうっとりしてきた。もう、むずかしい話はまっぴらだった。只、深い考えもなく、和子を慕って尋づねたことに金山はぬくぬくとしたのを感じる。〔9〕
「何時でもその環境に応じて自然に変化出来る」人間というものの本性が、金山の姿を通して描かれている。秋子を失った今、金山は、自らの生への欲望に導かれるように、和子のもとを訪れた。体裁や常識、「むずかしい話」などとは関係なく、金山の生存本能が和子を求めたのである。どのように環境や土地、価値観、社会が変わろうとも、人間は生きていかなければならないし、慣れることができる本能をもっているようだ。戦況の悪化という状況、そして後に訪れる敗戦による価値観や社会の大改革という環境の変化にも、金山は慣れていかざるを得ない宿命を担っている。
金山に担わされたこの宿命は、当時の多くの日本人が課されたものであった。『浮雲』の富岡兼吾もまた、体裁や常識、さらには道徳観や倫理観にとらわれることなく、生存本能の赴くままに自らの身を置くべき女性の場所を転々とする。富岡兼吾についてはその名前「兼吾」から、「日本人一人一人の〈吾〉を〈兼〉ねている」という指摘がなされている。〔10〕「古い風新しい風」の金山は『浮雲』の富岡が形成される前段階の登場人物であろう。金山や富岡こそ、戦中戦後を体験した芙美子が描くことを切望した日本人像であったのだ。
ちなみに、「古い風新しい風」において、金山と和子がはじめて結ばれる様子は次のように記されている。
お互いの呼吸がすべてを語っていた。何一つ言い出す必要もないのだ。
和子は自分の頬にかかる男の固い髪の毛に頬を埋めた。ああこの感触と匂いのなかに、生涯を埋めても悔いのない、生々とした性のよろこびがあった。〔11〕
もはや和子は金山の感触や匂いから離れることができない。ここに男と女の本能をうかがい知ることができる。一方で『浮雲』においても、ゆき子が富岡の体臭に惹かれる場面があり、理性でははかることができずに続いてゆく男と女の結びつきが記されている。道徳観や倫理観、プライドにこだわらず、どのような環境にも慣れることで、生活せざるを得ない男。理性や知性を超えた感性で生きざるを得ない女。芙美子が描く人間たちの特徴だ。物語において、こうした人間たちは様々な土地に解き放たれ、生かされていく。芙美子は、彼らを通して人間の真の姿を捉えようとしたのである。
6 名前のない赤ん坊
嘉隆が戦死し、和子と金山との新たなる生活がはじまっていく。女学校時代の生徒・春江の存在が二人の間に波風をたてる中、和子は金山の子供を宿す。この子供を堕胎したくてたまらない和子であったが、無事に男の子が生まれた。
赤黒い赤ん坊の顔が金山のおもかげそっくりで、和子は神秘な気がした。南美子は嘉隆に似ていたし、赤ん坊は金山に似ている‥‥。相手によって、それぞれに似た風貌をそなえて生れてくる子供に対して、和子はひそかに微笑ましいものを感じるのであった。〔12〕
和子を通して生まれた二人の子供、すなわち、戦中のボルネオで生まれた嘉隆の子と、戦後の東京で生まれた金山の子は、「それぞれ似た風貌をそなえて」いるという。これをただ単に、各父親に似ているという意味でのみ捉えるのではなく、彼らがそれぞれ生まれた土地の特徴や思いを兼ね備えた存在であると解釈することが必要である。彼らは、その生まれた地を象徴する子供として描かれているのだ。このような子供たちに対して和子は、「ひそかに微笑ましいもの」を感じる。「ひそかに」という部分が重要だ。そもそも金山の子を堕胎することを始終考えていたはずの和子である。煩悶の果てに生まれてきた子供ではあるが、自らの意志や憂いを超えたところにある、どうしようもない自然の原理に、思わず「微笑ましい」ものを感じてしまったということであろう。
一方で、生まれてきた子供について、和子と金山が、それぞれ異なる思いを抱えながら見つめる場面がある。
何とかして、子供をおろしてしまはなかった事を和子は幾度となく後悔していたのである。その迎へられざる子供はいま、すくすくと生れ、金山は満足そうに小さな生物にみとれている。――金山は金山で、心のうちで、陽の射すような幸福を感じていた。〔13〕
子供を、敗戦後の日本・東京を象徴する存在としてとらえた場合、新たなる世界に躊躇する和子の思いと「何時でもその環境に応じて自然に変化出来る」ことができる金山の思いの相違を読みとることができる。子供の誕生を何よりも喜ぶ金山。彼を後目に、和子は複雑な気持ちを抱えたまま「やみくもに突きあげて来る涙をどうする事も出来ない」。彼女の涙を、どのように解釈したら良いのだろうか。安堵感と、困惑と、希望と、あきらめ。こうしたものが混在する気持は、次のようにも記されている。
和子は行きばのない孤独に追いつめられてしまった自分のみじめさを感じた。時代は変ったのだ。すべて古いものは遠くはるかな風に乗り、いまは新しい時代になり、その新しさは、すべての人間を風化してしまう事のみに役立っているような気がした。この新しさは少しも進歩的ではない。その日、その日が崩れ、風化してゆくだけの光陰にしか考えられないのだ。(中略)この長い戦争の為に、男も女も、何かしら大切な一つのポイントをなくして生きているような気もして来る。そのポイントは何だろう? 心のなかでく事を忘れ去って、ただ空洞になった今日を生きる肉体だけが生きて行動している。〔14〕
戦後の日本人がなくしてしまった「何かしら大切な一つのポイント」とは何だろうか。なくしたものがわからないまま、ただ「空洞」となっているその部分を抱えているからこそ、和子は「やみくもに突きあげて来る涙をどうする事も出来ない」のだ。この空洞を抱えてしまった者は、もちろん、和子だけではない。名付けることのできない「空洞」は、作者・林芙美子、そして、私たち日本人に突きつけられた問題でもある。この空洞を抱えたまま経済発展を成し遂げ、それをアイデンティティとして、私たち日本人は戦後を生き抜いてきた。しかし、空洞は埋められることのないまま、戦後七〇年を経た今も私たちの前に顔をのぞかせる。芙美子が「古い風新しい風」で記した「何かしら大切な一つのポイント」は、現代の私たちこそが考えてしかるべき問題なのではないか。
「古い風新しい風」においては、戦後日本の象徴である和子と金山の子供の名前は最後まで不明なままだ。ボルネオで生まれた南美子に対して、戦後日本に生まれた名無しの子供が意味するものは大きく深い。「何かしら大切な一つのポイント」が何かわからないように、私たちは、この子供の名前を永久に知ることはできないのだろうか。
7 南への希求
最後に、物語の最終場面を引用する。
「南美子遅いね‥‥」
金山は壁の手拭を取って手を吹きながら
「名前は何とつけるかな‥‥」
と、大きい声で云った。
湯をつかって、新しい着物に着替えた赤ん坊は、産婆の手から、金山の手に渡された。案外軽い。たよりない程軽い。南美子のづつしりした手ごたへと違ひ、赤ん坊は柔らかく軽かった。〔16〕
ここで記される、南美子の不在に、一抹の不安に満ちた想像力がかきたてられなくもない。なぜならば物語の中盤には、嘉隆の母親が孫の南美子を引き取りたいと言いながら、一人で留守番中の孫に新宿でおしるこをふるまう場面があるからだ。また、想像力を駆使しながら先を読み進むと、「南美子のづっしりした手ごたへ」を感じたという金山の肌感覚も少々懐疑的に捉えることができる。自らの子供の誕生を体験し、金山は「ブロオカアでも何でもいいどのような卑俗な仕事でもやってのけられる勇気がふつふつと湧いて来るのはどうした事なのか」と思ったというが、もしかしたら、自分と和子、そして生まれてきた子供が生き抜くために、南美子をなんらかの形で犠牲にしたのではないか、と考えることも可能である。「この半年の身を食いつくすような貧窮の生活には二人とも参りきっていた」のだ。和子が金山との子供を堕胎しようと考える一方で、金山が南美子を犠牲にしようと考えていたとしても不思議ではない。
こうして、戦中の南方で生まれた「南美子」が不在のまま物語は幕を閉じた。目の前にいるのは、敗戦後の日本で生まれた、まだ名付けられない赤ん坊である。ずっしりと重い「南美子」の喪失が暗示され、「軽い」何者かを目の前につきつけられたまま、金山と和子はこの先を生き抜いていかなければならないのだろう。
南美子について、その存在の行方がはっきりと記されていない以上、様々な自由な解釈が可能であるが、いずれにせよ、南方という土地は敗戦後の日本から失われ、芙美子の中においても思い出だけのものとなった。失われた南の地を、戦後、芙美子は何か大切なものを刻印するように、様々な作品に記していった。『うづ潮』には、ジャワの歌「ブンガワンソロ」が描かれ、晩年の代表作『浮雲』もまた、前述したように南方の地を舞台としている。そして、南方への憧憬を抱え続けた芙美子の晩年を表すエッセイ「屋久島紀行」(「主婦之友」一九五〇年七月)には次のような記述がある。
現在の日本では、屋久島は、一番南のはづれの島であり、国境でもある。種子島を廻り、屋久島が見える頃には、このあたりの環礁も、なまあたたかい海風に染められているであろう。すばらしい港はないとしても、私は何も文明的なものを望んでいるわけではないが、南端の島に向って、神秘なものだけは空想しているのはたしかだった。戦争の頃、私は、ボルネオや、馬来や、スマトラや、ジャワへ旅したことがあった、その同じ黒潮の流れに浮いた屋久島に向って、私はひたすらその島影に心が走り、待ち遠しくもあるのだった。〔17〕
さらに作品には、ジャワの風景を思い出す場面がいくつか描かれており、屋久島滞在中の芙美子の心に、常時、戦時中の南方の記憶があったことは明らかだ。
屋久島滞在体験が『浮雲』の最終場面へとつながっていくことは先に述べたが、屋久島へと向かった主人公たちが、過去に失った「南の地」を取り戻せたとは言い難い。ダラット時代に燃え上がった富岡とゆき子の日々は、屋久島で再現されることはなかった。病身のゆき子は、富岡の愛を確認できないまま、屋久島でその生涯を閉じていった。もはやこの地はゆき子にとって、「自然も人も一つにとけてたわむれあって」いる「現世の童話」とはならなかったのである。「南の地」は、戦後、芙美子の中で激しく求めつつも、永遠に失われたものとなってしまったのであろうか。
「古い風新しい風」の最終場面における「南美子」の不在はこうして、芙美子文学の重要なテーマとなる、失われた南の地を予感させるものとして読み解くことができた。この意味においても、本稿で取り上げた全集未収録作品「古い風新しい風」は、一般には知られることのないテキストではあるが、「ボルネオ ダイヤ」や『浮雲』などの名作と深い繋がりをもつ、重要な作品として位置付けることができるのではないか。
注釈
〔1〕林芙美子「作家の手帳」(『林芙美子全集』第6巻 一九七七年四月)四十三頁。
〔2〕平林敏彦「林芙美子について 一九四八年「新風」」(「現代詩手帖」57巻4号 二〇一四年四月)
〔3〕林芙美子「古い風新しい風」(「新風」一九四七年十二月号)九~十頁。
〔4〕林、同、(「新風」一九四八年三月号)三十一頁。
〔5〕林、同、(「新風」一九四七年十二月号)十頁。
〔6〕林、「作家の手帖」、四十四頁。
〔7〕林、同、四十四頁。
〔8〕林、「ボルネオ ダイヤ」(「改造」一九四六年六月号)一〇二頁。
〔9〕林、「古い風新しい風」(「新風」一九四八年一月号)五十五~五十六頁。
〔10〕清水正『林芙美子の文学 『浮雲』の世界No.1』(二〇一三年十二月 D文学研究会)一一二頁。
〔11〕林、同、五十六頁。
〔12〕林、同、(「新風」一九四八年五月号)三十九頁。
〔13〕林、同、三十九頁
〔14〕林、同、三十八頁。
〔15〕林、同、三十九頁。
〔16〕林芙美子「屋久島紀行」(『林芙美子全集』16巻)十三頁。
初出「日本大学芸術学部紀要」64号(2016年11月)