Reexamination Of Japanese “Southern” Experience

from The 1920s To 1950s

日本人の「南方」経験の再検討

-グローバル時代の新しい歴史像の構築に向けて-

国際シンポジウム「日本人の「南方」経験の再検討」発表者への質問等

2021年12月4日(土)、オンラインにて国際シンポジウム「日本人の「南方」経験の再検討」が開催されました。
当日の発表に関連し、コメントにて寄せられた質問や意見を以下にまとめましたので、ご覧ください。
なお、口頭での質疑応答については、こちらに含まれておりません。

後藤多恵(京都先端科学大学教育開発センター嘱託講師)
「南方」の経験と日本語教育 スマトラ・マラヤとの関わりを中心に」

ソコロワ山下聖美 氏 :
バハリンさんはメダンの日本語学校にいらしたのですね。ちなみに戦時中のパレンバンの日本語学校「瑞穂学園」について何かご存じでしたら教えていただけますでしょうか?私の研究対象の林芙美子が当時そこに行きました。また、戦時中にメダンの日本語学校に貢献した文学者などはいたのでしょうか。

後藤多恵 氏 :
ご質問ありがとうございます。パレンバンの日本語学校「瑞穂学園」の情報はあいにくありません。いま個人的に、戦前からの日本とスマトラの人の移動について関心を持って文献を集めているので、何かわかればご報告いたします。また戦時中にメダンの日本語学校に貢献した文学者の話は聞いたことがありません。一度メダンの人に聞いてみます。

金山泰志 氏 :
後藤先生ご報告ありがとうございました。
漠然とした教育史のイメージとして、教育制度や教科書といったものに焦点が当てられることが多く、個別具体的な研究があまりないと感じていましたが、日本語教育史でもやはりその傾向が強いというご指摘もあり、大変勉強になりました。その重要性について後藤先生のご報告を聞いて改めて意を強くしました。日本語教育については、台湾の日本語教育についての研究を少し見たことがあるのですが、そのような比較検討のような研究もあるのでしょうか?

後藤多恵 氏 :
ご質問ありがとうございます。日本語教育史でも同じです。国内においては、個人が特定されるような戦中の事例は記述されてきませんでした。この分野の積極的な研究の取り組みは、河路由佳(2011)『日本語教育と戦争』(新曜社)です。著者は、私の発表の中でご紹介した国際学友会で日本語を教えていた方で、同僚の先輩の先生方から戦中のお話を伺っていたご経験があります。戦中の日本語教育関係者への聞き取り調査もなさっていますが、その際のご苦労なども何かに書かれていました。

金山泰志 氏 :
ご返信ありがとうございます!ご教示いただいた文献、大変興味があるので、入手して見てみたいと思います。ありがとうございました!

後藤多恵 氏 :
中世から戦前までの日本語教育史の研究には、教える人の顔が見えるような、また教室の声が聞こえてくるような内容のものがあります。キーワードにも個人名が挙げられるのが特徴です。戦中においても、「どんな言語接触があったのか」想像したいところですが(豊かな交流はあったはずです)、具体的な現場の話は語られていないのが残念です。南方で日本語を教えた教師の思いと、他者からの見られ方が大きく異なってしまったことも理由の一つかもしれません。これから若い研究者の方々がその空白を埋めてくれることに期待しています。

Susy Ong 氏 :
私が知っている限り、メダン市の市民は大きく分けて中国系(華人)、バタック族(クリスチャンが多い)とマレー系(ムスリム)がいます。日本語を熱心に学んで、日本語教室の外でも積極的に日本語を話そうとしているのは、どの出自の人々でしょうか。

伊藤雅俊 氏 :
Susy先生、ご質問ありがとうございます。私の知る限り、華人系も、バタック人も、その他のエスニック集団も熱心に、早ければ中学校から日本語を学んでいます。宗教や出自関係なく、日本語を学び、使用しているかと思います。現場を知る後藤先生のご意見も頂戴したいです。

後藤多恵 氏 :
Susy先生、ご質問ありがとうございます。はい、メダンは中国系の方が多く、福建語が町で普通に使われています。またマレーの人もバタックの人もジャワの人も多く、非常に多言語多文化な場所ですね。「日本語を熱心に学んで、日本語教室の外でも積極的に日本語を話そうとしている」人は、民族を問いません。私はメダンの中国系の60代・70代の日本語学習者のグループの方と交流がありますが、その方々も積極的です。

Susy Ong 氏 :
後藤先生、伊藤先生、ご回答ありがとうございます。因みに私は1980年代の初めごろにジャカルタの国際交流基金の日本語講座で勉強していましたが、学生はほとんど全員、中国系でした。

伊藤雅俊(日本大学国際関係学部国際教養学科助教)
  「日系インドネシア人二世の日系人意識—残留日本兵の子どもである—」

Arwin Suprianto 氏 :
中華系インドネシア人に対して「あなたは中国人だ」と言われたら、「私は中国人じゃなくインドネシア人だ」と強く強調しているが、日系次世代はどのような気持ちでしょうか?

伊藤雅俊 氏 :
Arwin先生、ご質問ありがとうございます。日系二世以降の日系人もorang Jepang(日本人)と呼ばれることがあります。そう呼ばれることをどう思うかは状況にもよりますが、たとえば歴史の授業で日本軍政時代について学んだ後はからかわれることはあります。

金山泰志 氏 :
伊藤先生ご報告ありがとうございました。
満州の残留日本人問題は国が責任をもって取り組むこととされ、「中国残留邦人支援法」など制定されていますが、インドネシアの場合はどんな感じだったのでしょうか?(不勉強で申し訳ありません)
インドネシアならではの日系の方々の特筆点のようなものはあったのでしょうか。例えば、日系アメリカ人は強制収容所での生活がアメリカ社会で大きく変身していくまたとない機会になったということを見たことがありました(吉浜精一郎『太平洋戦争と日系アメリカ人の軌跡)。

伊藤雅俊 氏 :
金山先生、ご質問ありがとうございます。日本政府から日系一世たちに(おそらく1991年に)軍人恩給の支給がはじまりました。戦後だいぶ経ってから非国民・逃亡兵という汚名が晴れたということです。一方、インドネシア政府からは独立戦士としての功績が認められています。ちなみに一世大半がインドネシア国籍を取得できたは1960年前半。

Susy Ong(インドネシア大学大学院日本地域研究科講師)
  「新聞記事に見る蘭領インドの初期日本商業移民」

町田祐一 氏 :
Susy先生のご報告、大変興味深かったです。おそらくメディアにおいては、「南方熱」を煽るだけでなく、問題のある実例をふまえ一獲千金や暴利の「冷却」という機能を持っていたのであり、時期ごとにどのような変化が見られるかわかるとさらに面白いと思いました。

後藤多恵 氏 :
Susy先生、大変面白くてご報告を伺いながら、「わくわく」しました。私は幕末・明治初期の日本人のスマトラへの移動に関心をもって、色々資料を探していました。Susy先生が発掘された資料の内容は、大変よい参考になりました。ありがとうございます。

ソコロワ山下聖美(日本大学芸術学部文芸学科教授)
  「〈南方〉への移動と還流の果て—林芙美子『浮雲』を読みながら—」

町田祐一 氏 :
山下先生のご報告、大変興味深く感じました。主人公の生きづらさ、というか、流れていく理由が気になりました。作者林芙美子の思考には、戦争への思いや、戦後社会への違和感、あるいは宗教観の変化のようなものが背景にあったのでしょうか。

ソコロワ山下聖美 氏 :
ご指摘ありがとうございます。実は林芙美子は戦争が激しくなる前から「流れていきたい」的な思想をもっていたと思っています。それが可視化されたものの一つが「浮雲」だったのかもしれません。結局、戦前、戦中、戦後を通して実は生きづらかった作家だったのではないでしょうか。戦争や南方はそうした自らの気持ちを考える大きなきっかけだったと思います。

鳥海早喜(日本大学芸術学部写真学科准教授)
  「『アサヒグラフ』撮影者調査の追加報告と山端祥玉らからみた南方」

ソコロワ山下聖美 氏 :
鳥海先生、オランダ、インドネシア、長崎の流れ、私もとても興味をもちました。さらに探究していきたいですね。

鳥海早喜 氏 :
山下先生。先生との調査で長崎・出島を調査させてもらったことが大きいです。従者だと写真に写ることが立場的にないと思うのですが、鎖国時代に写されたインドネシア人がいたら、すごく素敵だなとロマンを感じます。

金山泰志 氏 :
鳥海先生ご報告ありがとうございました。
個人的には、グラフィック・メディアに着目することは、表象(イメージ)研究ではとても大事だと思っているのですが、いかんせん文献史学の研究方法しか知らないので、写真表現からの分析にとても興味があります(先生も仰っていたように言語化するのが大変難しそうです・・!)。
先生のご研究の本筋とは離れるかもしれませんが、絵葉書の話もとても興味深かったです。絵葉書も日本で大流行するので、それによる影響力も大きそうだなと思いました。

鳥海早喜 氏 :
金山先生。私はむしろ文献史学が不得手なのでインドネシアに行けず写真史料と向き合えなかったことがとても歯痒いです。史学的に読み解くにはインドネシア現地の体感が少なくてまだまだ力不足です。写真と絵葉書の関係も興味深いですよね。

後藤多恵 氏 :
鳥海先生、ありがとうございました。メダンでフィールドワークをしていると写真資料がいかに現地の人にとって貴重かに気づかされます。長さんの元残留日本兵の写真集を遺族の方にお見せした際に、お父さんやお祖父さんの姿と昔の情報を知ることができたと言われたことが2度ほどありました。「南方」の写真資料が現地の方にも容易に閲覧できるようなシステムが確立されることを期待します。

鳥海早喜 氏 :
後藤先生。言葉だけでは伝わらないものが写真だと実感をもって伝わるように思います。両国が保有している関係写真を相互に容易に見ることができるようになるのが理想的ですよね。

石川徳幸(日本大学法学部新聞学科准教授)
  「戦前の「南方」における日本人社会と新聞
   〜佃光治の『爪哇日報』創刊をめぐって〜」

ソコロワ山下聖美 氏 :
石川先生、内容はもちろんのこと、zoomにおけるプレゼン方法など、とても勉強になりました。学術系ユーチューバーとして広く社会に研究成果を発信する道筋がみえてきました。

石川徳幸 氏 :
山下先生
ありがとうございます。オンラインだと対面と勝手が違うので、どのように工夫したら良いのか、手探りですが色々試しております。
研究で得られた知見を世の中に還元する意味でも、先生の取り組もうとしておられる学術系ユーチューバーは魅力的な挑戦になると思います。楽しみにしております。

牛田あや美(京都芸術大学文明哲学研究所准教授)
  「戦前における子供たちにとっての南方」

金山泰志 氏 :
牛田先生ご報告ありがとうございました。
以下、質問というか感想です。
私も『少年世界』『日本少年』『少年倶楽部』など子供向け雑誌で研究しているので、大変共感するものが多く勉強になりました。
子供向けの雑誌を研究する意義は、読者層が子供であることにとどまらず、送り手側の大人(編者・記者)の南方観もそこから読み取れるということだと思いますので、やはり注目に値するメディアだと思います!(子供から大人にまで共有される最大公約数的南洋観が見て取れる)。
『少年倶楽部』もそうですが、戦前の少年雑誌は教育の補助機関としての側面がありますので、少年雑誌に牛田先生がご紹介くださった「南方」関連の記事があったことは、そこの連関を改めて確認できたという点で大変参考になりました。
先生がご指摘されていた「外国の憧れ」ですが、「異国情緒」を味わうという意味で、様々な南方関連のメディア(例えば、南方関連の映画など)に共有されるような重要なキーワードなような気もしました。
あと、『少年倶楽部』は明治期の少年雑誌と異なり、文章記事だけでなく、挿絵や漫画、写真も豊富なので、さきほどの鳥海先生のグラフィック・メディアのような側面もあるなと改めて感じました(貴重な史料の山だと私は思ってます)。

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